別記事にて「言語が持つ三つの性質」という概念を著した。

この記事では違う概念を用いて言語に関する私見を述べたい。
誰しも「保守思想」を持っている
「個人的保守」とは何か
この言葉にあなたはどんな印象を持つだろう。國體護持、自主防衛、皇統の男系男子堅持、などの主張をするイメージかも知れない。
実はあなたの中にも必ず「保守思想」はある。
スマートフォンを例に挙げよう。あなたはこう思っていないだろうか。
安定動作を求める
通信の安定を求める
保存したファイルと作成したプレイリストの維持を求める
これらの価値判断を私はこう分類する
「九条保守」も個人的保守
この記事で書いた「九条保守」も「個人的保守」の価値判断に基づいている。
大体、行動半径の五メートル内、過去数十年、未来数年を基準に価値判断をするのが「個人的保守」と言えるだろう。
上記は多く見積もっての基準なので、半径五十センチメートルの人もいれば、過去三ヶ月程度の人もいる。
「かも知れない運転」は保守思想
自動車運転教習を受けた人が必ず教わる考え方がある。
「かも知れない運転」という言い回しは「上から目線」や「見える化」のような幼稚転化語のニオイがしてあまり好きではない。
しかし、自動車運転の心得として実に端的な文言であることは認めよう。この「かも知れない運転」こそ「保守思想」の基本なのだ。
「国家的保守」とは何か
一方、下記の価値判断はどうだろう。
核武装
原発再稼働
皇統の男系男子堅持
日本国憲法破棄
消費税廃止
積極財政
これらの考えを持っている場合を分類するとこうなる。
国土全体を視野に入れ、国の成り立ちから今に至るまでの歴史を踏まえ、はるか先の未来を想像する。
これが「国家的保守」だ。
「個人的保守」と「国家的保守」の両方を持っている人もいれば、そうでない人もいる。核武装と原発再稼働に反対する人は、これらを「個人的保守」の視点から論じている。
といった近視眼的かつ情緒的な側面から価値判断をしているのだ。
現在、日本は米国の植民地状態を継続しており、しかも中露南北朝鮮から侵略を受けている。この記事を執筆している時点では「節電」と「停電」を覚悟しなくてはならない。
「個人的保守」の視点で核武装と原発を否定すると矛盾が生じる。いずれ自分とその家族が苦しむことになりかねない。その苦しみは、まだ見ぬ子孫にまで及ぶ恐れがある。
言語は「国家的保守」に分類すべき
では「言語」はどちらに分類されるべきなのか。それは「国家的保守」である。悲しいかな、日本人の多数にその感覚はない。
多くがそのような価値判断を有している。
極端な表現をすれば、言語に対する多数派の認識は「個人的革新」。「保守」ですらない。
日本語を守りましょうと言ってる人は少数派。ただ、その人達は「個人的保守」に過ぎない。しかも、その人達に「個人的保守」という自覚はないのだ。
といった言語観をおぼろげに持っている。
日本語を守りましょうと言ってる人には「言語は国家的保守の領域と捉えるべき」という感覚がない。故に「その時代の気分によって語義と遣い方を変化させるのが必然であり当然」という「個人的革新」に圧されてしまうのだ。
「個人的革新」は目先の情緒に素直なので抗える人が少ない。そういった人達の中では「無添加」と「核武装反対」は同列。同じ感覚で語れてしまうのだ。
前項で「個人的保守」は「核武装反対」と述べた。「個人的革新」でも「核武装反対」と書いている。「個人的革新」は、核は怖いからいつかはどの国も廃絶するだろう。そのためにも日本はお手本になるべきという論理。
実は「個人的保守」と「個人的革新」は同じ答えにたどり着く場合があるのだ。これは面白いポイントである。
国家を保守する観点から論じる言語
変化した言葉をよく見てほしい。その変化とやらは、くだらない不要なものばかり。私は大声でこう批判したくなる。
大昔に変化した言葉を見ても、変わりつつある今の言葉を観察していても、ふざけたものだらけ。合理性と趣きの両面から見ても、その変化とやらは全く無意味で無価値。
「足をすくわれる」を「足元をすくわれる」で良いと強弁したり
納金が課金という対義語に入れ替わったり

「難度」が「難易度」という二重基準の言葉で上書きされたり

こんな変化のどこが好ましいのか誰か説明してくれたまえ。
テレビの有名人やアクセスさえ集まれば良いクズなウェブサイトなどの影響で、いとも簡単に言葉が流行したり、誤用を刷り込まれる。
情緒による価値判断、状況の気分による変更、これらを政治面に当てはめると間違いなくこう批評される。
「衆愚政治」「暴民政治」
だと。
「あらたしい」が「あたらしい」に塗りつぶされそうな時代に生まれていたなら、私は迷わずこう主張していただろう。
言葉の変化とは、大概が「バカな奴らが気分で言語を蹂躙している」に過ぎない。
日本人は言語を、国柄を保つ大きな柱と認識せず「言葉は生き物」という観念を全肯定してきた。
言葉の変化に対する懐疑や反省が弱かった日本人は、それ故に「バカな奴らが気分で言語を蹂躙している」という実態から目を背け、一度戦争に負けただけで独立を取り戻す気概を失い、未だ属国に甘んじているのではないか。
「国家的保守」の側面から言語を捉える人が増えない限り、日本はまたどこかの属国になるだろう。
私は時折思う。こんな国はさっさと滅びてしまえと。





