平野啓一郎という人間について少し語ろうと思う。
こいつは「二枚目気取りの三枚目」という形容が相応しい。読み進めれば何故相応しいのかわかるはずだ。
はじめに断っておくが、この記事の主題は平野啓一郎の言語感覚を批判することである。
強欲な少数派とアホな多数派を結ぶもの
「少数派」「多数派」という二つの面から、平野啓一郎という男を料理していく。
こいつは芥川賞作家らしいのだが、私の印象では「日本国内で」一部の朝鮮人の味方をする男といったところ。
その点では少数派に属している。
日本における一部の朝鮮人の訴えは「強欲な少数派」のそれである。権利をよこせ金よこせが奴らの本音だ。
一方で平野啓一郎は「普通においしい」という表現を認めろと記事にまでする、典型的な「言葉は変化する教徒」だ。
日本人のほぼ全てが「言葉は変化する教徒」なので、この点では多数派に属している。
「その時代の気分で言葉を変えて何が悪い」という観念が「アホな多数派」の元凶であることを、殆どの日本人は自覚できていない。
当然、平野啓一郎に自覚できるはずがない。
「強欲な少数派」と「アホな多数派」との共存。
これは一貫性の欠如なのだろうか。
誰しも矛盾を抱えており、完全に一貫性のある人間はいないと思われる。分野によって自分が多数派側になることもあれば少数派側になることもある。
しかし、原発に反対しているのにオール電化住宅を薦めていたり
沖縄の米軍基地反対運動をしながら非武装非交戦が記載された米国製憲法を崇め奉り護ろうとしたり
キズナアイは性的搾取だと訴えるのに「ぐらんぶる」には寛容というのは
と問いかけられても仕方がない。
では、平野啓一郎に
という問いかけが当てはまるのか。「概ね当てはまる」と私は思っている。
その理由は「日本人の気分」という側面において精神が分裂しているからだ。「統合失調」状態と表現してもよい。
これが日本人の気分だ。
しかし、平野啓一郎はこんな調子で少数派側に心を寄せるのである。
これも日本人の気分だ。平野啓一郎が書いた記事を引用しよう。
アホとしか言いようがない。だが、これが日本人の気分であり平野啓一郎が支持しているのだ。
二枚目気取り→精神分裂状態
この「精神分裂状態」を引き起こしている原因を私はこう考えた。
これで正義の味方気分を味わえる。
これで親しみやすさを演出し器の大きさをアピールできる。こちらが恥ずかしくなるくらいミエミエのカッコつけである。
こんなのは小学生までにしてくれと言いたくなるほどの。
朝鮮人に味方する側がなぜ少数派になるのか、インターネット環境が普及した時代の日本ならわかるだろう。
例えば上記の動画を観た日本人はどんな感情が高まるだろうか。
これらである。損得勘定(感情)と嫌悪感情、二つの面から強欲朝鮮人の味方になれない日本人が多数派になるのは当然。こう言っては何だが、アホな日本人にも非常にわかりやすいのだ。
それだけに米国の「トモダチ作戦」にコロッと騙されたりするのだが。
米軍トモダチ作戦はサイコロジカルオペレーション
モテたければ進歩的文化人になれ
平野啓一郎のような、冴えない風体の男が二枚目を気取るためには「進歩的文化人」になり「アイデンティティポリティクス」をやるのが手っ取り早い。
伊藤貫
出来の悪い人間ほど女性学の問題とか少数民族の問題とか、いわゆる「アイデンティティポリティクス」(をやりたがる)。
あんなもの学問のレベルに達していない。(そういう人間は)犠牲者探しをやっている。
桜井誠
ポリコレの正体は「差別」を訴えて利権を得ること。
弱者を見つくろって、誰の中にもありそうな不満や不公平を拡大化して喚き散らす。たとえ多くの日本人から袋叩きにされても「孤高の言論戦士」を気取ることができる。
他方、俺は文芸畑の人間だけど、言葉の変化に寛容だから頭の固い老害たちとは違うんだぜ、と「柔軟性があって器の大きい人間」を演出することができる。
これで俺はモテモテだぜといったところか。モデルと結婚したらしいが、一応、平野啓一郎なりに作戦は成功したのかも知れない。たかがモデル一人口説けたくらいでアホ丸出しなのだが。
二枚目と思わせることが、進歩的文化人を装う目的の全てではないにしても、奴の心の中には必ずこの魂胆はある。
ウサギはお好き?キュウリはいかが?エポワスは?
二十代前半に「DOS SIBARIS(ドス・シバリス)」というスペイン料理店に連れて行ってもらったことがある。
連れて行ってくれた方は女友達の母親で、とある女子大学の講師をしていた。その方は当時独身で結婚の話までしていたお相手だ。上品な人だった。
「ウサギはどうかしら?」
その人に尋ねられた。ウサギが食材になっているなんて知る由もない私は「食べたことがないので」と答えるしかない。
ものは試しということで食してみることに。おっかなびっくりで口に運ぶ。その頃の私は地鶏とあまり区別がつかず「あっさりした風味で歯ごたえがある」程度しか味を言い表すことができなかった。
食べることが大好きな男性が宴会の場でこんなことを言っていた。「キュウリが苦手で」「あの瓜臭いのがダメ」「だからスイカもちょっと抵抗がある」。なるほどと思った。
魚が嫌い
トマトが嫌い
ピーマンが嫌い
ニンジンが嫌い
トコロテンが苦手
パクチーが苦手
ピクルスが苦手
セロリが苦手
かぼちゃが苦手
とろろとおくらと納豆が嫌い辛いものが苦手
炭酸が苦手
ワサビが苦手
あんこときな粉とスイカが苦手
しいたけは食べ物ではない
「食べ物の好き嫌いがない」
こう言える人を探すほうが実際は難しい。つまりは、いくら「ウサギやキュウリがおいしい」と主張したところで、納得できない人がいるのだ。
私は「エポワス」というチーズがとりわけ好きなのだが、かなりのクセモノ。強烈なアンモニア臭がするためだ。カマンベール、モツァレラ、シェーブル、ミモレットのようなあっさりした風味のチーズ以外受け付けない人に、到底このおいしさは伝わらない。
普遍なんてどこにある?
ここでもう一度、平野啓一郎の記事の文面を引用しよう。
注目していただきたいのは「普遍的に通じる」という部分である。
私は常々思う。
そもそも食べ物には好き嫌いがある。年代や地域でも味の好みが違う。普遍なんてあろうはずがない。
普遍性のなさは味覚だけに留まらない。企業は新規なものを口八丁手八丁で押し付け、日本人は喜び勇んで飛びつく。それだけでは飽き足らず新規なものを更に求める。
こんな世の中で「普遍」や「普通」を見出すことはかなり困難だと思わない人間は相当なアホだ。
西部邁
日本人はイノベーションと言った途端にもうパチパチ(拍手する)なんですよ。技術革新が世界を救う、国家を救うという発想こそが国家を危機に放り込むんです。
どうしてかと言うと「革新」でしょ。新しいことを作るということは既存のルールは通用しなくなる。「新しいことが良いことだ」それこそが進歩主義の権化。
適応能力が何十年何百年経ったときに自分の首を絞める。
「効率的市場仮説」との類似性
これは「効率的市場仮説」とそっくりだ。
「効率的市場仮説」とは、人が合理的に行動するはずだから、できる限り市場は自由にしたほうが資源がうまく配分されていくという考えだ。あなたもご存知の通り、それは全くの絵空事であることがわかった。
気分で言葉をコロコロ変えると普遍性が保てなくなる
平野啓一郎は言語の領域でこう主張しているわけだ。自由意志や多様性を重んじるなら「普遍」は各々バラバラになるはずである。
言葉を時代の使い勝手とやらで変えてしまえば、それに伴い必ず「普遍」の認識にズレが生じる。
平野啓一郎よ。各々が語義や用法をいじくり回して変化させるという多様性をお前は支持している。ならば「普遍」「普通」なるものにズレが生じ多様性に富むことを認めたことになる。
では「普遍的に通じる」という論理は否定されるのではないのか?
お前らみたいなやつの気分で語義と用法を変えたらどうなるかよく考えてみろ。変える必要がないと思っている私のような者との間で言葉の解釈にバラツキが出るだろうがボケ。
つまり、通義や通念がなくなるということだ。
お前らの勝手で言葉をいじくり回しておいて何が「普遍」「普通」だよ。
お
前
は
ア
タ
マ
の
病
院
行
け
そ し て
そ
の
ま
ま
逝
け
場当たり的に言葉を変えたら、それこそ「言葉の普遍性」が失われる。
「軍国」と「言葉」どちらも大勢の気分
お前は「日本に戦争させない」「憲法九条を守れ」と言っているタイプの人間だ。これは「戦前の日本は間違っていた」という前提を基にしている。
つまり、お前は「軍国主義に向かわせた多数派の気分は誤り」と主張したいわけだ。これは「大勢の気分で決めた方針は誤りうる」ということを意味する。
では「大勢の気分で決めた『言葉遣い』は誤りうる」という理屈にもならないのか?もしならないとするならば、危機意識が恐ろしく低いと言わざるを得ない。
お前はこう書いている。
「変化」と「新規」詐欺
変化するのは好ましい。新規なものほど素晴らしい。この前提こそ今の我々が疑うべき観念だ。
しかし、平野啓一郎のようなマヌケは、視野が狭く刹那的な思考しかできないので、これを全く理解できないのだろう。
そして「変化容認論者」が使ういつものパターンで、私のような人間のことを思考停止した頑固者だと誘導する。平野啓一郎の発言から具体例を示そう。
この言葉で印象操作を行っているのだ。実際、思考停止しているのは平野啓一郎のほうである。
この精神の元、どれだけ日本を壊したら気が済むのだろう。言語だけ「変化」と「新規」詐欺から逃れられると考えるほうがおかしい。
西部邁
チェンジって変革ですよね。変革していればいずれ良いことが起こる。実は左翼の定義というのはそれだったんですね。
西部邁
「New Change」は何か良い事をもたらすはずだという漠たる…
中野剛志
変化を恐れるな。
西部邁
それがずっと続いているんですね。
中野剛志
何か変えることに興奮する。でも、世の中よく見てみると、どんどん悪くしているので、それを留めるって発想だってあるはずなんですよ。何でいつも適応のほうなのかと。
中野剛志
セリフ同じなんですよ。 「起爆剤!!」とか「突破口!!」とかですね。 お前起爆してやるっていう。
伊藤貫
日本人の行動方針はその場の状況によってどんどん変わる。目先の利益を確保すること以外は何も考えていない。金儲けのことばかり考えている日本人はどんどんダメになる。
上記動画は日本の政治家の国防政策に関する話である。私の見解では政治家の国防政策にとどまらない。
・行動方針はその場の状況によってどんどん変わる
・目先の利益を確保すること以外は何も考えていない
これらは「言語に対する日本人全般の姿勢についても当てはまるのではないか」というのが私の考えだ。
お前の普通なんて知らん
誰かが「LINEをしていないのは今どき普通じゃないよ。非常識だ」と言ったとしよう。LINEをしていない私からすればそれは「普通ではない」「非常識でもない」と言いたくなる。この時点で「普遍」は揺らぎ「普通」は一定の基準になりえないのである。
私は「普通においしい」なんてパッパラパーな表現を絶対に受け入れない。
何でもかんでも「普通に」と付けるお前らの勝手にどうして従わなければならないのだと思うからだ。
稚拙な表現にも関わらず察しろと圧力をかけてくるのはお前が嫌う「弾圧」ではないのかい?平野啓一郎大先生よ。
と、攻撃したくなるのは当然だ。
それは、読解力の放棄でも話者の心情に対する不理解でもない。超能力者でない限り「普通においしい」という表現を私が味覚として想像することはかなり困難だ。「〇〇に似た味」ならまだ想像できるかも知れないが。
変化を歓迎するアホな時代に「普遍」という共通了解がどこにあるのか。そんな疑問も持たない平野啓一郎は見事なまでのアホである。
私普通じゃないんですか?/お前の言う普通の基準がわからん/普通ってなんだ?/ごく普通の巨大迷宮/普通って誰の普通よ/普通かしらぁ?/俺は元から普通です/あんたの言う普通ってそもそもどのぐらいのレベルなわけ?/普通に普通って普通なのか?
味覚なんて人によってバラツキあり過ぎなんだよ
久しぶりに口にした肉の味は眼の前がクラクラするほどおいしかった
(ウジ虫食べて)デリシャス/原材料はウジ虫エキスだって♪
「普通に」を乱用するのは、適切な言葉を探す余裕がないか面倒ゆえ。あるいは元々適切な言葉を学んでいないのだろう。「普通に美味しい」から、繊細で具体的な味を想像できるのなら超能力者。 / “問題な日本語:読者の方からのコメント” http://t.co/Oc0Bc6yGlW
— 村正 (@mu__s) 2015年5月17日
武漢肺炎ウイルスとフリマアプリ
シュワちゃんの「普通」は過剰か
武漢肺炎ウイルスへの対応はまさに「普通」の認識が異なることが如実に現れた。シュワちゃんのこの発言には他者の「普通」に対する激しい憤りが見て取れる。
君達の自由なんて知ったことじゃない!(「お前の自由なんかクソくらえ!」という訳はあまり良い気分はしないが、他に適当な動画がなかったのでご了承いただきたい)
私の場合、そもそも「武漢」という地名を省き「コロナ」と呼称することに強い疑念がある。ところがそれは「拘り」だとほざくやつがいるのだ。
本音は、日本国内の感染拡大も全部中国の責任とすることで、春節ウェルカムしていた安倍首相に責任が及ぶのを防ぎたい心情の表われではないか。
WHOは地名を入れることを「差別だ!」と言いがかりをつけ排除させる動きを見せている。WHOがどこの手先に成り下がっているかよく調べてみると「拘り」ではないことがわかるはずだ。
下記は全部場所がわかるような名前である。
エボラ出血熱 | コンゴ民主共和国エボラ川(エボラウイルス) |
---|---|
ラッサ熱 | ナイジェリア連邦共和国ラッサ村(ラッサウイルス) |
マールブルグ熱 | 旧西ドイツマールブルク(マールブルグウイルス) |
フリマアプリのマイルールは「普通」の崩壊現象
フリマアプリでは「マイルール」が横行している。
「プロフ必読!」「買う気のないいいね禁止!」「24時間以内に支払い厳守!」「非常識な値下げ交渉はブラックリストに入れます!」などの文言は出品者側の横暴で傲慢な態度のように感じられる。
しかし、出品者側をこんな態度にまで駆り立てるのは購入者側にも問題があるからだ。ところが、強い調子でマイルールを羅列している出品者が下記のようなことをしているのもザラなので手がつけられない。
- 「画像で判断して下さい」「子供がいますので発送が遅れる場合があります」と自分に甘い
- 破損のリスクを考慮したとは思えないズサンな梱包
- 自分が禁止している「いいね」や「非常識な値下げ交渉」を平気でする
拒否の原因と擁護の原因
ここまで、平野啓一郎の主張を否定してきた。だが、本来はこんなに長々と書く必要がない話なのだ。
実のところこの記事はたった数行で終わる。
- 「普通においしい」という表現に対し、疑問視する声や拒否的な意見が出るのは何故か
- それは表現の体を成していないからである
- 即ち、問題の原因は話す側の表現スキルにある
- 批判と疑問の目を向けるべきは表現者側の怠惰
- 平野啓一郎は問題の原因に気付いていない
- あるいは見ないふりをしている
たったこれだけである。話す側の言いたいことが伝わってこないのに、それを聞き手側の責任にすり替えているのが平野啓一郎の主張の正体。
こいつは、擁護の原因すら自覚できていない。拒否の原因を最初から排除しているのだ。
センスがない男
平野啓一郎は「普通においしい」という表現を擁護する記事の中でこんなことも書いている。
「なにげに」が心地よいと思えるアホなセンス
これを見て確信した。こいつとはセンスが合わない。もっとはっきり言わせてもらおう。
「なにげに」という表現に遣い心地の良さは感じない。それどころか、殴りた倒したくなるほど不快だ。
ここでもこいつの「精神分裂」「統合失調」ぶりが垣間見える。
「なにげに」という表現に関して、情緒で良し悪しを判断するアホな多数派を支持しているわけだが、朝鮮人の擁護をするときには「非国民と言われても構わない」と少数派を気取るのだ。
言葉と人間を比べるなと思った人に釘を刺しておこう。言語は国や民族の基盤、インフラストラクチャーだ。それを一時の気分で壊したり変えたりすることがどれだけ恐ろしいことかよく考えろ。
「~感を感じない」と書けることに集約されたセンスのなさ
そして「なにげに」よりも不快なのは「違和感を感じない」という重言を平気で書けてしまうところ。
私は「~感を感じる」「感じる~感」という重言が嫌いだ。殺意を覚えるほどに。どれだけ感じれば気が済むのかと言いたくなるくらい今の日本は「感感感感」とやかましい。
こんな無粋な重言を何の躊躇なく遣えることにセンスのなさが集約されている。
この表現を目にした瞬間
と言いながら
してやりたくなった。
「~感を感じる」「感じる~感」と平気で書けるやつは相当オツムのセンサーがイカれていると自覚するべきだ。
感の重言についてはこの記事でも少しとりあげている。
特に無神経で不快だと思う重言
美しいかどうかなんてわからない
平野啓一郎が同記事内でこう書いているので、ついでに反論しておこう。
本人はそれで「美しい日本語」を守ってるような気になってるんでしょうけど、言葉に対して、無意味に硬直した態度に陥っているとしか思えません。
私は「美しい日本語」を求めているわけではない。「適切な日本語」を求めている。
それについてはこの記事でも触れているが綺麗な言葉だけを遣えと主張しているのではない。
「日本語は美しい」私にはこういった感情がない
例えば「クソ」の遣いどころを弁えろと主張しているのだ。よって、お前に対して「顔面を金属バットでフルスイング」とも書けるし、ストレートに「ブチ殺してやろうか」と言い放つこともできる。
そもそも私は「日本語が美しい」か否かなんてわからない。これについては、何れ個別記事として投稿するつもりだ。
二枚目気取りの三枚目
平野啓一郎はつまるところ薄っぺらい。薄っぺらいのは二枚目を気取ろうとするからだ。
「強欲な少数派」と「アホな多数派」に与していることさえ気付かない癖に、文化人を気取り知識人面をした恥ずかしいマヌケである。
故に高らかにこう言って差し上げよう。
ブ男というのは見た目のことではない。己を直視できないことだ。
ワイン、ウイスキー、香水などを参考にすべし
ワイン、ウイスキー、香水、葉巻などを嗜む界隈の形容は、表現力を磨くのに好適である。
あなたが未成年だったとしても、その多彩な「喩え」は非常に刺激になるだろう。その喩えは「クドい」くらい具体性に満ちている。「普通においしい」という陳腐で曖昧な形容は一切入る余地がない。
私が安直な「普通に~」表現を奇妙に思うのは、香水や紅茶やワインやウイスキーを好んでいたからというのもある。磁器の魅力も含め「ウエッジウッドティールーム」に通い詰めたこともあったくらい紅茶に心酔した時期もある。
これらの界隈は「この味や薫りを何に喩えようか」という意欲に満ちており、時には突飛でありながら想像を駆り立てる表現が出るのが当たり前だった。
「ゴムや鉄サビ」なんて表現が飛び出すこともある。実際にゴムや鉄サビを食べたことがなくとも、そう表現することで独特の臭みやザラつきを想像できるのだ。
とりあえず「アードベッグ」の形容を紹介しよう。「アードベッグ」とはスコットランド、アイラ島産のウイスキー。いわゆる「アイラ・モルト」であり癖が強いのが特徴。
ARDBEG
CORRYVRECKAN
アードベッグ コリーヴレッカン
TASTING NOTE
COLOR 深い琥珀色 NOSE 恍惚とするほど強烈で力強い香りの渦に引き込まれる。
タールロープとクレオソートの香りの奔流に圧倒されるうちに、ダークチョコレート、カシス、黒糖の香りに続いて熟したチェリーや松葉の香りが渦の底から湧き上がる。
グラスが暖まると、さらにカイエンヌ・ペッパーのかかったステーキやペッパーソースで蒸し焼きにした牡蠣、潮や海草、スモーキーなベーコンの刺激的な香りに、甘いバニラやクローブ、ブルーベリーのニュアンスが加わる。PALATE ペッパーステーキのようなスパイシーで強烈な第一印象。さらに飲み進むと、エスプレッソコーヒー、とろけるようなダークフルーツ(カシス、ブルーベリー、チェリー)やアーモンド、アニスの味わいに変化する。 FINISH 香ばしいブラックコーヒー、チョコレートでコーティングしたチェリー、ペッパーソースの余韻が長く続く。
「普通においしい」と言う人は味覚表現障害である
「言葉の変化の実態」を暴き出す「六つの視点」
適応という「良習」の先に待っている日本消失
言語が持つ三つの性質
言葉の誤りを指摘される人=〇〇に洗剤を使う人