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誤用

テンションすらまともに扱えない日本人

今回は「テンション」の誤訳・誤用について持論を述べたい。

話は日本国憲法や主権にまで広がるが、全て繋がっている。

誤訳について考えるきっかけになれば幸いだ。

テンションが上がるという怠惰

日本人は外国語の訳し方に驚くほど鈍感だ。

興奮や高揚を「テンションが上がる」「テンションが高い」と平気で言える
再挑戦を「リベンジ」と平気で言える
高所得者を「セレブ」と平気で言える

それだけではない。日本人は自ら作った新語の原意もあっさりと忘れてしまう。

近年にできた「壁ドン」「バブ味」「イキリト」などの語義がいとも簡単に崩れ去る。如何に言葉の扱いがデタラメなのかを目の当たりにした。

自分が接している言語空間で「テンションが上がる」「テンションが高い」という表現をしていれば、何の疑いもなく採り入れる。

怠惰としか言いようがない。

そんな怠惰なやつらが、あらゆる領域に出しゃばってくるものだから、言葉の扱いはますます粗雑になる。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
そのテンションの遣い方おかしいよ

と言おうものなら、奴らお得意の理屈で否定する。こちらをバカにするオマケ付きで。

言葉は生き物
言葉はみんなの利便性に合わせて変わっていく

あたりは典型。

まともな言語感覚の持ち主からすれば、こんなものは恥をごまかすための方便でしかないとすぐにバレてしまうにも関わらず。

混在するテンション

身体作りが趣味の私は、よくワークアウトに関する動画を観る。その中では正しく「緊張」という意味で「テンション」を用いていることが度々ある。

「テンションを維持する」「テンションを抜かない」といった遣い方だ。

正しいテンション

私としては、気分が高揚するという意味で用いられる「テンション」があちらこちらを侵食しているため、面倒で仕方がない。語義が混在していると会話が噛み合わなくなる恐れがあるからだ。

自らテンションの誤用をする不思議な米国人。何故テンションの誤用に疑問を持たないのか。

そんなの文脈から「興奮/高揚」か「緊張」かくらい区別して汲み取れよ

とでも言うのだろうか。

動作の説明に限り「緊張を維持する」と表現すれば済む話だが、やはり誤訳による語義の混在は好ましくない。

因みに「トレーニング」も不適切で、本来は「ワークアウト」が好ましいとのこと。ただ、動作を「トレーニングフォーム」と表現する他に選択肢がほぼない。また、どうしても「筋トレ」という表現は避けて通れないのだ。

私はできるだけ「ワークアウト」を用いている。とはいえ、どうしても「トレーニング」を排除できない。「ワークアウトドリンク」「筋トレフォーム」といった感じで混在してしまう。

テンションに話を戻そう。

もっと困るのは「ハイテンション」という表現。「テンション」の誤用は音楽の「テンションコード」という用語から始まったらしい。

音楽の場合「緊張状態」と「興奮状態」が並び立つ場合があるため「ハイテンション」なる表現も「緊張と興奮が共に高まる」ことは大いにありうる。だが、世間では今や「ハイテンション」と言えば「高い興奮」の意味しか残っていない。

故に、音楽の感想で「ハイテンション」と書かれると、文脈を辿っても「高い緊張状態」なのか「高い興奮状態」なのか、それとも「緊張と興奮が共に高まる状態」なのか読み取るのは難しい。恐らく「高い興奮状態」なのだろうが。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
カタカナ英語を用いたいなら「ボルテージ」はいかがだろうか
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
「ボルテージ(voltage)」は電圧という意味だが、興奮になぞらえるならテンションよりよほど好ましい
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
テンションをわざわざ用いる必要はどこにもない

開き直る精神性は大いに弊害あり

多くの人は誤用や誤訳そのものに弊害がないと思っている。それは一面で正しいかも知れない。

例えば我々は次のような誤りを教えられてきた。

秦字
→漢字

国史
→日本史

ミハルス
→カスタネット

満州服(旗袍/チーパオ)
→チャイナドレス

大東亜戦争
→太平洋戦争

クラッキング
→ハッキング

確かにこういった誤りを教えられても日常生活に弊害があるとは言い難い。

しかし

これからも間違って構わない
誤りも定着すれば正しい

と開き直る精神性は大いに弊害がある。

大きな弊害を被るのは恐らくあなたではない。未来の日本列島に生きる人達だ。

「未来の日本列島に生きる人達」

このような書き方をしたのは明確な意図がある。日本という国はなくなり、名目上の日本人は存在しないかも知れない。そんな意図だ。

甚平だと思っていたけど作務衣だった

「デモクラシー(democracy)」を「民衆政治」ではなく「民主主義」と訳した弊害

「これからも間違って構わない」「誤りも定着すれば正しい」と開き直る精神性について考察を深めよう。

日本国憲法の前文を思い出していただきたい。ご存知の通り日本国憲法は米国製であり日本語に訳されたものだ。前文の一部を転載する。

平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

衆議院

何やら日本語としておかしいと感じないだろうか。元の英語がおかしいのもあるだろうが、我々は、こんな杜撰な日本語訳で書かれた憲法を大切にするべきなのか。

日本国憲法は日本語ではない

「デモクラシー(democracy)」を「民衆政治」ではなく「民主主義」と訳したことも大問題である。

「民主主義」なる言葉から連想するのは当然下記のようなものだ。

  • 民が主体となり

  • 主権を行使して

  • 国家運営をする

民が最も偉いと言わんばかりだ。最も偉いのであれば当然、相応の深い思慮による価値判断と、それに対する責任を背負わなければならない。それが「主体になる」ということの本質。

しかし、主体になれるほど国家視点で物事を考えている民はどれだけいるのか大いに疑わしい。永続的な国家全体の安定を考えている民は殆どいないだろう。

そんな民に主権を行使できるだけの責務を果たせるのか。まず無理である。

主権なんておこがましい。そう思えるくらいの謙虚な人こそ、かろうじて主権を行使するに値するのだ。

私の目に映る民は凡そこんなものである。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
せいぜい行動半径の五メートル内/過去数十年/未来数年を基準にし、印象論や感情論で不満と願望を叩きつけているだけ

「democracy」を何故「民主主義」と訳したのか

「民主主義」という歪んだ訳を何の疑いもなく受け入れたお陰で、不満と願望ばかり肥大した「モンスター市民」が大きな顔をするようになったとは言えないだろうか。

上記の「市民」は、もはや「国民」ではない。「国」という枠組みはもう古いとすら思っているフシがあるくらいだ。

「九条壊すな」だの「天皇はいらない」だのと喚く連中は「民主主義」と誤訳された影響を色濃く反映している。


語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
「North Korea」も「朝鮮民主主義人民共和国」
あんな国のどこに民主なんてあるの?

「ライト(right)」の訳語を「権利」と表現したのも問題だ。福沢諭吉が用いていた「権理」のほうが適切ではなかろうか。

「権=はかる」「理=ことわり」

「right」を「権理」と訳した福沢諭吉
「維新」という言葉の誤解
「メイジ・リストレーション(Meiji Restoration)」を直訳すれば「明治復古」

誤訳に無頓着だと思考が歪む

「テンション」から随分話を広げてしまったが、全て下記に集約される。

「誤訳に無頓着だと思考が歪む」
「テンション」は興奮するという意味で用いても良いのだ

こういう心持ちで言葉に接していると、語義を考えなくなる。そうなると、思考が言葉に踊らされるようになる。そして、いつの間にやら思考が歪んでしまうのだ。

「デモクラシー」を「民主主義」と訳したことによって、多数の人が大きな勘違いをしたように。当然、私もその一人だった。

今でも「テンション(緊張)」「リベンジ(復讐)」「テロ(恐怖・不法暴力)」などが、語義を考えることなく平気で誤認され「常用」されている。

「常用」できてしまうほど、語義を考える必要に迫られない人が大半。

「写メ撮って」「飯テロ」「意外と」おかしな言葉だらけ

テロの定義

語義を考えなくて良い状況とは何か。責任を負わなくて良い状況である。本当のところは、責任を負わなければならない状況であるにも関わらず、逃げているのではないだろうか。

訳語を含め、言葉に無頓着な人間は無責任で不誠実なのだ。日本はそんな人間が多数派を占める。

結局のところ、国民に主権者としての責任を負う覚悟はない。故に選挙に当選するのは有名人。ロクに考えもしないからだ。そして、結局のところ政策に文句を言う。バカだろ、日本人。

「テンション」すらまともに扱えない日本人が、主権を行使して国の将来を決めることなんて不可能であり不相応なのだ。

日本沈没も間近だ。残念でした。

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語求(ごきゅう)
「適切な言語感覚」を探求する者。「言葉の変化全肯定論者」の軽薄さと危険性を独自の視点で暴き出す。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人よ。あなたの言語感覚は間違っていない。そんな奴らに屈するな。国防に必要なのは核武装 と言語の保守だ。アイコンはユルいが50代の筋トレおじさん。
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