「意外と」という表現が当たり前のように溢れている。
言葉遣いに関わるブログを運営しておきながら、私はこの表現がおかしいと気付かなかった。しかも、あろうことか、二度ほど遣っていたように思う。
自分が無自覚に過ちを犯していることに直面し、恥ずかしさでいっぱいだ。
そして、どこを見渡してもデタラメな言語空間しかないのだなと、改めて痛感する。
それなりに警戒心があったはずの己がこのザマなのだから情けない。
こういった恥をどんどん曝け出すことがあなたの助けになれば幸いだ。
上島嘉郎氏の憤りと水島総氏の無頓着
「意外と」が間違いだと気付いたきっかけは「上島嘉郎氏」の発言である。
上島氏が番組内で「意外と」という表現が大嫌いだと述べていた。言われてみれば「と」はどこかおかしい。
一度、おかしいとわかれば、やたら気持ち悪さを感じるのが辛いところだ。だが、楽な方に流れて「意外と」を今更受け入れるのはまっぴら御免。
上島氏がその発言したのは「チャンネル桜」の番組。その「チャンネル桜」の水島総社長はよく「日本を主語とした」という標語を掲げる。
これは元々上島氏の発言であり、水島氏が気に入って掲げるようになったそうだが、当の水島氏はたまたま観た討論番組内で「意外と」を連発していた。
その討論番組は「意外と、が嫌い発言」の約十一年前だが、上島氏も参加している。その時の上島氏はどんな気持だったのだろうか。やるせない。
水島氏は今でも「意外と」のおかしさに気付いていない様子だ。
「日本を主語とした」と掲げつつ言葉遣いに甘いチャンネル桜
少し話は逸れるが、チャンネル桜には下記のような意見を「何度も」メールしたことがある。
「可能性」の遣い方をもう少し適切にしてくれ(誤用だらけ)
番組タイトルに「御」皇室と書くのは不敬ではないか(今週の御皇室)
させていただきます及び感の重言連発)「させていただきます」は控えるようになった。
だが「全く」変わる様子はなかった。(僅かながら変わった)当然、今でも変わっていない。
「日本を主語とした」と掲げ、マスコミの言葉遣いを批判するなら、水島氏側こそ好ましい言葉選びをしてしかるべきだ。高清水氏同様、水島氏も「~感を感じる」なる無様な重言を遣う。
水島氏はあらゆる番組内で自慢気に「私、脚本やってきましたから(だから言葉の扱いにはシビアだ)」と語っているのだから、素人の私がメールするまでもなくプロとしての意地を見せて欲しい。
高清水氏にしても、言葉遣いにえらく高い意識を持っているようだが「させていただきます敬語」を平気で乱発するところからして、胡散臭いマナー講師という印象しかない。「させていただきます」は控えるようになった。
「ドモリ」に隠蔽された実像
伊藤貫氏に対する視聴者のコメント
ここからは更に話が逸れる。
水島氏やチャンネル桜を全否定しているのではない。私は水島氏が好きだし日々の活動には頭が下がる。泳いで尖閣に上陸した水島氏に感動すら覚えた。(上陸の際に同行した山谷えり子氏は伊藤貫氏の姉)
日本を真の独立国にするために頑張ってきたことも認める。
それらを踏まえた上で、私が思うチャンネル桜最大の功績は、西部邁・伊藤貫両氏が発言できる場を増やしたことだ。一方で馬渕睦夫氏や林千勝氏を大々的にとりあげるのは如何なものかと。馬渕・林両氏の言説を「全面的に信じる」ことは売国に繋がる。
視聴者は伊藤氏の「あの~あの~」が聞き辛いとコメントする。であるならば、同じように水島氏を始めとするキャスター達の言葉選びにも少々批判の声を上げてほしいものだ。しかし、そんなコメントは皆無に等しい。
故・大平正芳元総理に対する世間の印象
なかなか言葉が出てこない人を安易にあげつらう光景で思い出すのが故・大平正芳元総理だ。「あ~う~」という癖を、マスコミに煽られ国民が笑いものにしていたあの頃。
私は小学四年生だったので在任中の記憶は殆どないのだが、成人してからも「あ~う~」のシーンが事あるごとに流れていたので「大平さん」を知っていた。
その「大平さん」をテレビから垣間見て「国のお偉いさんというのは頼りないな」と、政治をどこか遠いの世界の出来事として感じたものだ。
ところが、いい歳になって少しばかり調べてみると、知っていたはずの「大平さん」の実像は私のイメージとは全く異なる「意外」なものだった。
大平氏が掲げた「田園都市国家構想」には一部疑問があるものの、当時の日本の状況を大局的に捉え、風土・伝統・文化を尊重する国造りを模索していたことが伺える。
戦後歴代首相を俯瞰すると、大平氏も吉田茂氏の従米路線を踏襲していると見られ、政策全てに諸手を挙げて賛成はできない。だが、少なくとも、インチキトンチキの小泉純一郎は足元にも及ばないし、私のようなド素人が及びもつかない深い思索をしていたことは疑いようがない。
大平氏はその姓に違わず大いなる思想家であったのだ。小泉に漠然と好感を持っていた当時の自分を殴りつけたい。
小泉政権時、彼のルックスを高く評価する声が多かったが、今見ると大平氏のほうが断然「良い顔」だと私は思う。
出典:首相官邸
故・中川昭一氏を死に追いやったのは
故・中川昭一氏のいわゆる「酩酊会見」。そしてあまりに唐突な死。
核武装論者だった中川氏を死に追いやったのは米国だと言われている。真実は不明。しかし、その遠因は同じ自民党議員と、マスコミが主導したとはいえ日本国民にもあると思う。そして今でも中川氏を間接的に冒涜しているのではないだろうか。
その中川氏の友人である伊藤氏の「あの~あの~」を聞き辛いと文句をつけるYou Tube視聴者。
そんなYou Tube視聴者の大半は、読みやすさを全く考えずコメントを書きなぐるだけ。体裁を整えてコメントしている視聴者はごく僅かだ。
Amazonのレビューも同様。あなたの思いはわかったから、もう少し見る側のことも考えてくれ。
こちらは楽天ブックスに投稿されたもの。読み終えることができなかった本を分類するために星1にして投稿しているそうな。
「あ~う~」を笑っていた頃と何が変わったのか。実は何も変わらないのではないか。私はそう思えてならない。
アホな地上波バラエティ番組が派手な字幕と刺激的な言葉で煽る演出をやめない理由がわかる。己の態度を省みず、他者の失敗を嘲笑うだけのマヌケが減らないからだ。人の振り見て我が振り直せ。
チャンネル桜出演者の中では伊藤氏はかなり聞き取りやすい側だと思う。佐藤健志氏や宮本光晴氏、故・宮里立士氏のほうがよほど聞き取り難い。
身勝手な視聴者が減ることはない
「人は話し方が9割」
こういった説があるようだ。私も概ね同意する。
しかし、普段から改行や空行を入れもせず、幅広なコメントエリアを目一杯使ってダラダラと思いの丈を書き殴るような奴らが偉そうに「あの~あの~」を聞き辛いと不満を漏らすのはどういった了見なのか。一体こいつらの脳ミソはどうなっているのかと、頭蓋骨をカチ割って覗いてみたいものだ。
中野剛志
「もっと深いことを一所懸命考えようとすると英語に限らず母国語だって流暢にはしゃべれない」
自分のことは見えにくい
思いの外、言葉に鈍感な三橋貴明氏
三橋貴明氏はとあるラジオ番組で「あの~」や「あれ」や「すなわち」などが一切ありませんね、という司会者の投げかけに、言わないように意識していると答えていた。
また、そのラジオ内で言葉の定義にうるさいとも述べていた。
知識と弁論術の裏打ちがある三橋氏はそれらを体現しており、テンポの良い語り口は感心する他ない。故に彼の話し方に対する姿勢は私も見習いたいくらい大賛成だ。
ところが、三橋氏とて言葉の定義を間違えている。「真逆(まさか)」を反対の意味として「まぎゃく」と発言しているからだ。
言葉の保守は何処へ
「真逆(まさか)のまぎゃく読み」をしているのは三橋氏だけではない。「保守」を標榜する水島聡氏、藤井聡氏、中野剛志氏も当然のように「まぎゃく」を用いている。
また、三橋氏はラジオ内で「見える化」という表現も遣っている。私はこの「見える化」なる幼稚でふざけた言い回しが鳥肌が立つほど嫌いだ。更に「普通に」の遣い方もところどころ怪しい三橋氏。
「じゃね?」という表現も平気で用いている。「ぶっちゃけ」と発する回数も多い。
しかも「意識している」はずの三橋氏でさえ口癖がある。その口癖は、とあるアニメのキャラクターとそっくりだ。
語尾を繰り返す三橋貴明です、三橋貴明です。
語尾を繰り返す白亜・バーサーカー・ブレードフィールドですよ、ですよ。
「普通に」「じゃね」については別記事があるので是非ご覧いただきたい。
「真逆」「見える化」などはいずれ投稿しよう。とにかく自分で思っているよりも言葉の定義に鈍感だというのが私の三橋氏評だ。
水島氏や三橋氏の話し振りを見ているとこんな感情が浮かぶことがある。
水島氏は「八紘一宇」「家族のような国家」「日本と一体になる」「私がないのは皆私」「自分が日本である」といった観念的な言葉を唐突に、あるいは強引に持ち出してくる。それらの言葉が日本及び日本人に対する現状分析と全く噛み合っていないにも関わらず。
これで「絶望の伝道師」「絶望が足りない」とはよく言えたものだ。あなたこそ絶望が足りない。「日本と一体になる」とは何かを「皇室があったから」だけで済ませるようでは、とてもこれからの日本を保守していくことはできないだろう。
水島氏は日本を護りたいという思いと発する言葉が合致していないのだ。しかも、流行り言葉も平気で遣うし、誤用を「絶対に」訂正しない。
水島氏の論調は、日本人のDNAにあたかも「家族のような国家」「私がないのは皆私」などの観念がプログラミングされているかのようだ。
そんなプログラムがないことは遺伝学と歴史学の両面から明白。それを裏付けるサンプルが欧州には山ほどあるではないか。
三橋氏はいくら「あの~」や「あれ」や「すなわち」などを排除し、明瞭な物言いをしても伊藤氏に比べ大局観が足りない。加えて言葉選びも心もとない。
伊藤氏は長年ワシントンD.C. に住み、英語でレポートを出し、不遜なアメ公と英語で論戦をしてきた。そんな伊藤氏に日本語の言葉選びで遅れをとる三橋氏。伊藤氏の言葉遣いは実にオーソドックスだ。
伊藤氏は「普通に属国になる」「普通に倒産」「普通に滅びます、日本は」なんてふざけた言い回しはしない。
ドモリの苦悩
西部邁氏は佐高信氏との番組の中で、自身がドモリだったことを述懐し、故・田中角栄元総理のドモリ克服のエピソードや「ま~その~」と前置きする癖について触れていた。
西部氏曰く、ドモリがある人間は「次の言葉がわかっていながら出てこない」とのこと。その際に「こりゃまぁこの~」とやると次の言葉にスッと入っていけるそうだ。
西部氏はそれを「人知れず涙ぐましい努力」と言い表し「角栄さん見たときに、あぁやってるなぁということがわかった」と述べている。
得られる教訓
話を蛇行させながらここまで書いてきた。ここで、得られる教訓は何かを考えてみよう。
得られる教訓はズバリ
これに尽きる。
大風呂敷とは「自分は言葉の定義に厳しいんだぞ」と表明することだ。
私が尊敬している西部氏でさえ、言葉の間違いが多い。サブライム(sublime)の意味をソブリン(sovereign)と混同しているし、重言も結構ある。あえて「天皇制」を用いたり、誰かに吹き込まれるままに「ネトウヨ」と言ったりもする。
私はこの記事で「ネトウヨは存在しない」という論陣を張っているのだが
ネットに明るくなかった西部氏をこの面から批判するつもりはない。
察するに、西部氏は自説を組み上げる際、突き当たった言葉に照準を合わせている。故に、それ以外の語義や用法がやや曖昧なのではないかと思う。少しばかり誤りがあっても仕方ないところもあるだろう。
西部氏には大風呂敷を広げない奥ゆかしさがある。
西部氏は語る。
失礼を承知で言うが「かわいらしい人だな」と思う。
そして何より、誤りを補って余りあるほど西部氏の本質論は揺るぎない。
上島氏にも同様の心持ちが感じられる。決して「自分は言葉の定義に厳しいんだぞ」と大上段に構えない。「自戒を込めて」とワンクッション入れている。
水島氏と三橋氏にはそれが見受けられない。高清水氏からは「言葉遣いには自信がありますのよ」という驕りすら感じる。その驕りが「皇室」の頭に「御」付けさせるのではないのか、高清水さんよ。
上島氏はこれまでの出来事を善悪に別けて批判や礼賛するのではなく「これからの我々は何を汲み取り大切にしていくべきなのか」と論を展開する。
これは非常に重要で、どこかの討論番組で上島氏が「親米」を文章上で遣ったことがないと述べていたが「何を汲み取り大切にしていくべきなのか」という視座に根ざしているように感じた。
これは言葉全般に係ることだが「親米」という表現だけが独り歩きして、ただのレッテル貼りに成り下がることへの警戒だと思われる。
「適切な日本語探究」というブログ名に込めたのは、表現だけが独り歩きすることなく「言葉の定義を求め続ける」姿勢。
「俺は言葉の定義に厳しいんだぞ」と表明した時点で「求め続ける」ことを放棄したことになる。
何故なら、まだ知らない言葉の定義を追い求めることができなくなるからだ。過去現在、そして未来まで含めて、まだ自分の知らない言葉は無数にあるのだから。
水島氏には「脚本家風情だが、それなにりに言葉を扱ってきた者として」と付け加えて欲しいし
三橋氏には「あくまで経済関連の言葉の定義にはうるさい」と範囲を限定して欲しい。
重言の記事でも少し触れたが、脚本家の言葉選びは驚くほどズサンだ。
水島氏には悪いが、脚本家こそ言葉に甘いと私は確信した。
「意」を形作るものは何か
「意外に」「意外と」の話からYou Tube視聴者批判、ドモリ、言葉の定義などを書き連ねてきた。振り幅が大きくまとまりがないと感じた人もいると思う。
そこで、記事の主題「意外に」と強引に結びつけて「意」を形作るものは何かという問いを立て考えてみることにしよう。
「意」とは「経験則」
「意」を形作るものは「経験則」ではないだろうか。
「経験則」は予測、知恵、固定観念とも表現できるだろう。
ここではとりあえず「意=経験則」とする。
「知覚」を媒介した「経験」が「則」
経験を「則」足らしめるのは「知覚」である。
経験を知覚して「則」を獲得する。「則」は大体の目星。見当といった大雑把なもの。
冷たいものを食べたら歯にしみた。これを知覚過敏と呼んだりする。冷たいものを食べる経験から歯が痛むという知覚を得て「冷たいものを食べるときは歯にできるだけ当たらないようにせよ」という「則」を獲得する。
歯にしみない人は「冷たいものを食べるときは歯にできるだけ当たらないようにせよ」という「則」を獲得しない。代わりに頭がキーンとなる知覚を得て「冷たいものは急いで食べない」という「則」を獲得する。
人それぞれ経験からのフィードバックが違う。
「経験則」とは「仮定」
経験から「知覚」を通して見当をつける。これを「仮定」と呼べないだろうか。「仮説」でも良いかも知れないが「仮定」のほうがしっくりくる。
「説」には一応の論理展開があり明瞭な印象がある。一方「定」には想念のような不明瞭なところに留まっている印象。
他者の「経験則」との関わり
「経験則」は他者とも関わっている。「他者の経験則」に触れるとどうなるか。
異なる経験則に触れると「意外」になる
同じ経験則に触れると「同意」になる
更に「意外」に直面した場合の反応を考えよう。
「意外=異なる経験則」を受容する
↓
自分の「意」が変化する
↓
経験則が修正される
「意外=異なる経験則」を拒否する
↓
自分の「意」が強化される
↓
経験則が固定される
「意の強化」や「経験則の固定」がセンメルヴェイス反射や経路依存性と言われるものだろう。
「意外」との出会いをどう捉えるか
「意」を形作るものは何かを考えてみた。ヨチヨチ歩きでありながら、哲学や心理学の領域へと踏み込んでみるのも良いものだ。
「意」とは「経験則」であり「仮定」である。
これが私なりの答えだ。そして私は先程こう書いた。
「意外=異なる経験則」を受容する→自分の「意」が変化する→経験則が修正される
この記事の表題に準ずると、私は上島氏の経験則を受容して「意外と」から「意外に」へと「経験則=仮定」が修正された。
これは紛れもなく「変化」である。ところが、当ブログの運営趣旨を乱暴に言えば「変化を拒む」ことだ。であるならば、趣旨から外れているのではないか。実は趣旨から外れていない。
趣旨から外れていない根拠。それは理性を秤りにしているからだ。「意外に」と「意外と」を理性の秤にかければ「意外に」側に傾く。
私が批判しているのは「理性」を介在させない変化である。
常に感覚、気分、情緒、空気、雰囲気などで語義や用法を変えてしまう。ともすれば「無自覚に変えさせられている」こともあり、それに気付かない場合も少なくない。
それは「理性」という秤が壊れているか、あるいは持っていないからだ。もっとも、理性も経験則の積み重ねを必要とするので、失敗を繰り返さないければならない。
ただし、理性ばかりを尊重すると「合理主義」の罠にハマってしまうのでこれまた厄介だ。
変化についてもう一点付け加えるならば、上島氏の立場から私を見た場合「意外に」という正しい表現に「戻した」ことになる。つまり変化前に回帰したということだ。
私が「意外に」が正しいと知らなかったため「意外と」へ変化していると観測できない。観測できないものを変化と認識することはできないのである。
変化の観測についてはこの記事でとりあげている。