不快な表現

褒め言葉として「クソ」「クッソ」を乱発する奴らを肥溜めに放り込んでやりたい

褒め言葉として「クソ」を乱発する奴らを肥溜めに放り込んでやりたい

この記事は令和二年一月二十一日(2020年1月21日)に、はてな匿名ダイアリー(増田と呼ばれているらしい)に投稿した文章を修正及び再構成したものだ。記事タイトルも少し変更。盗用でないことを証明するため、そちらの記事は先程削除した。
褒め言葉として「クソ」を遣うやつをボコボコに殴り倒したい
褒め言葉として「クソ」を遣うやつをボコボコに殴り倒したい-日記の編集

「クソ」や「クッソ」を汚い言葉と認識できないオメデタイ言語感覚

常々「クソ」や「クッソ」の乱発に腹立たしさを覚えていた。しかも褒め言葉として「クソ」や「クッソ」と遣う人間も出てきて不愉快極まりない。

「クソかわいい」だの「クッソうまい」だの頭の中が排泄物にまみれているのか?

それほど「クソ」が好きなら肥溜めに放り込んでも頭がハッピーセットのままでいられるのではなかろうか。

不愉快に感じている人が他にもいるのではないかと探したら下の記事に辿り着いた。

しかし、驚いたのがコメント欄。「クソ」「クッソ」を擁護しているコメントがあった。

わたあめ より:

マイナスを示す程度表現が強調のみ残すことは、言語史上多く見られることです。例えば我々が普通に使う「凄く」なども、もともとは「凄惨な、おそろしい」というようなマイナス表現の意味です。

こうした言語の変化に時代時代の人々も敏感でして、しばしば問題提起しておりますが、結局浸透してしまって、後世普通に使われることが多いかと思います。

「クソ〜」もその道を辿るのではないでしょうかね。私は育ちが悪く、なかなかに許容できてしまいお恥ずかしい限りです。

ななし より:

別に言語学者でもないし、比較的ら抜き言葉も目くじら立てるようなことはないんですけれど。

この一文の時点で変化する言葉に対してどうこういう資格はないというかクソだけに目くじらたてる理由もない気がします

時代とともに意味合いや表現は変化していっているという話ではないですか?

貴方が古典の文にでてくるような表現を使っているのなら話は分かりますが貴方の中の貴方の世代の言葉だって昔の人が聞いたら違和感にしかならない言葉はたくさんあると思います。

もうすこし変化を受け入れ寛容になられてはいかがだろうか

言語の過去現在未来をしっかり見ていれば、この記事に否定的なコメントをする理由はどこにもない。よくぞ言ってくれた!と高評価を示すのが当然。

私は配偶者の「嫁」呼称や、ら抜きが嫌いだ。それに記事タイトルの「ハンパない」という表現も少し引っかかるので、件の記事執筆者である奥野氏にそのあたりの指摘はするかも知れないが「クソ」や「クッソ」を擁護する根拠として使う気はない。

後日、奥野氏と一度メールのやり取りをした際「ハンパない」と書いた真意を知ることができた。

あえて「ハンパない」と書くことで「あなたも言葉が乱れているよね」とツッコんで欲しかったというのが奥野氏の真意である。

奥野氏流のユーモア、遊び心だったことを付け加えておきたい。

「嫁」と「クソ」で思い出したが、ヨスという気持ち悪い男が「嫁という言葉がクソ嫌いで」云々という記事を投稿していた。あいつも肥溜めに放り込んでやりたい一人だ。

変化させた過去の人間への言及や批判を一切しないマヌケ共

言葉は変化する。故に目くじらたてる理由はないという感覚が私にはさっぱりわからない。

お前だって変化した言葉を遣っていると批判してくるのがいる。その批判はごもっともかも知れない。ところが、そういった人間は変化させた過去の大衆から反省材料を一切得ようとしない。過去の変化に関する批判は一切なく何故か全肯定する。変化させた大衆への疑問も抱かず華麗にスルー。

変化させた大衆への疑問も抱かず華麗にスルーする一方で、表現のおかしさを指摘した人だけを責める。こんなもの公平性のかけらもない。

ななし
ななし
「昔の人が聞いたら違和感にしかならない言葉」

だから各々の時代にいたバカ共が「変化」とやらを続けた結果、現代の言語になってしまったんでしょうに。何故、現代に生きる奥野氏だけが否定されるのか意味不明。

少 し は 昔 の バ カ た ち に も 言 及 し ろ マ ヌ ケ 共 。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
「古典」の文にしたのは過去の大衆だ。
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
そのせいで言語の断絶が起きていることは全く無視なのかい?
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
授業に古文という科目が増える負担は無視なのかい?
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
大昔の書物を当たり前のように読めず、記した意図を推し量ることが困難になるのは民族や国家にとって良いことなのかい?

西部邁
新しい変化から新しい良きことが生まれるというふうに言ったのが丸山真男をはじめとする進歩的文化人。

富岡幸一郎
源氏物語を現代語に訳しても「もののあはれ」は感じられない。単なる恋愛物語としか読めない。

過去のバカな奴らが気紛れに変化させなければ古典の文にはなっていない。よって「わたあめ」と「ななし」の反論は生じない。

「ゆとり」批判と同じ事象

この状況は、いわゆる「ゆとり」批判にも似ている。

よく、ゆとり教育を受けた世代を批判する向きがある。眺めていると批判もやむなしと私も思うことがある。しかし、どういうわけか「ゆとり教育を実施した人間」に対する批判は非常に少ない。

少 し は ゆ と り 教 育 を 推 進 し た 奴 ら に も 言 及 し ろ マ ヌ ケ 共 。

当の寺脇研氏は「ゆとり教育の国賊」「自分が間違っておりました」と
一応、反省のポーズは見せている。

良心を履き違えた善人

奥野氏は現代人なりの好ましい表現について述べている。極論だが、もし、それぞれの時代に生きた人たちが奥野氏のような言語感覚を持っていたなら古典の文なんてものは存在しない。

「わたあめ」は「凄く」に言及しているがそれもお粗末。現在「凄く」や「とても」や「素晴らしい」を良い意味として用いるのは他に選択できる言葉がないから。

「クソ」は全く違う。「クソ」を遣わずとも表現できるしそちらの方が適切。適切な言葉選びをできていないから奥野氏は違和感、いや不快感を示している。

雰囲気に流されて雑な言葉選びをしているバカを批判するのは正常な感覚。それなのに「言葉は生き物でちゅー」「寛容になろうよぉ」みたいに言い放つ思考停止野郎が必ず沸いてくる。そう「わたあめ」と「ななし」のような奴らのことだ。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
そんな奴らからプンプン漂ってくるのは、全体主義、相対主義、虚無主義といった社会を不安定にする臭いである。
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
言語を壊している一因は「わたあめ」と「ななし」みたいな良心を履き違えた善人。
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
試合を観客席から眺めて「Aチームのほうが優勢だね」と言うだけの無能。
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
過去から学んでいるようで実は「その場その時」しか見えていない愚か者。

「わたあめ」と「ななし」は「寛容」という名の下に、見て見ぬ振りをしバカを放置しているマヌケなくせに自分は進歩的で器が大きいかのように見せ、奥野氏を蔑むクズ。それに全く気付いていないのが腹立たしい。

西部邁
国民の声から全体主義も軍国主義も生まれる

藤井聡
日本を腐らせたもの。悪いやつに対してムカついているやつにまぁ怒るなよっていうノリ

zettonz1(動画に対するコメント)
「悪が勝利するために必要なたったひとつのことは、善良な人たちが何もしないことである。」エドマンド・バーク

私は「わたあめ」と「ななし」のような「言葉は生き物」を盲信している人間が大嫌いだ。こいつらみたいな人間こそ「クソ」と言われるべき。これぞ適切な言葉選び。

「可能性」に葬られる「危険性」

「凄く」は他に選択できる言葉がないからと前述したが、もしかしたら良い意味を表す言葉は大衆に葬り去られたのではないかとも考えられる。

「危険性」「恐れ」「疑い」「懸念」などが「可能性」という言葉に上書きされている現況を見るに充分有り得る仮説ではないだろうか。

今生きている自分達は常に最善の選択をしているという幻想

よく大衆から必要とされる言葉や用法だけが残ると言うが、そんな観念を本当に信じているなら相当なお花畑思考だ。

どうしたわけか大衆は常に好ましい選択をしているという幻想を抱く。また、度が過ぎた間違いなら自浄作用が起こり広がらないとも思っている。しかしそれは単なる驕りでしかない。

絶対的な正しさがないという観念を盾に「言葉は生き物」だと決め付け反省も対策も考えない。それどころか過去を反省し、バカな変化の連鎖を食い止めようとする人を「言葉は生き物でちゅー」「寛容になろうよぉ」と言って叩きのめす。

言語の観点からすれば、そいつらは現代的でも進歩的でも寛容でもない。不寛容で古臭いと呼ばれるべきなのは本来そいつらである。

何故なら「大衆の気分で選んだ価値判断は失敗だらけだった」という例を現代人は沢山知るっているはずだからだ。もし、それを知らないならば情報化社会に生きている現代人とは言えないただのパッパラパーである。

中野剛志
トクヴィルを読んじゃうと日本がやってきたことというのも多数者の専制(専政)の方向にどんどん進めているのがよくわかる。

(略)

トクヴィルが言ったのは裸の民意が直接反映されると多数派が少数派を無視する形で弾圧して、わけのわからない意見で世の中が持っていかれる全体主義になるぞと。

区切られた時空間では「絶対的な正しさ」はある。

いつの時代も大衆は、過去から何も学ばず、未来に言語を託す責任も考慮せず今の雰囲気だけに流されているのは明らか。大衆が用いれば正しさが上書きされても良いと漠然と思い込んでいることがどれだけ危ういか気付かない。

大衆が常に好ましい選択をしているという幻想は言葉の意味を調べないバカを繁殖させる。

「言葉なんて時代で変わっていくんだから、どう使おうとかまわん」

こんなことを平気で言えてしまう無神経な人間に好ましい選択ができるだろうか。こんな無神経な人間に正しさや好ましさが上書きされて未来の人はどう思うだろうか。

私は気分で語義や用法をかき回した過去の人間達を生き返らせて「争いの種を撒き散らしたのはあなた達か」と言って、肥溜めに沈めたくなる。

もういい加減「不適切な言葉選び」を「言葉の変化」に擦り替えるのはやめていただきたい。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
「昔は汚いとされていた言葉も今は普通に用いられている」そんな悪しき実例があるのは仕方ない。
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
ならば、悪しき実例を仕方なく受け入れながら「今後は再発防止に努めよう」と考えるのが自然。とりわけ情報化社会の中で生きている今の我々ならそう考えるのが当たり前ではないだろうか。
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
にも関わらず「今後も同種の実例を積み重ねて構わない」と考えるのは、情報を活用できない反進歩的な人間と言うこともできる。

柴山桂太
過去でこういうパターンがありました。だから未来に(同じパターンが)ありますと簡単に言っちゃうんですよね。

(略)

常に過去と未来は非対称になっていて過去でこの10年間起きなかったからと言って未来で起きないとは限らない。

「言葉は生き物」とは「言葉を半殺し」にすることに等しい

「言葉は生き物」なんて殆ど、既存の語義や用法を蹴にして息の根を止めているだけ。言葉を作った人の思いを踏みにじる行為でもある。

「言葉を半殺し」にしておいて何が「言葉は生き物」「言葉は変化する」だ。

禄にマナーやエチケットを身に着けていない奴が無作法を諭された言い訳に「マナーやエチケットは時代によって変わるんだよ!頭固すぎ古臭い!」と反発しているようにしか見えない。

しばしば表現の変化前と変化後について摩擦が起きる。先述した記事のコメント欄も似たようなもの。変化とやらは余計な争いを招く元になっている自覚あるのか?「わたあめ」と「ななし」さんよ。

「どくせんじょう」を「どくだんじょう」に変えて意思疎通が効率化したか?教養と文化水準が向上したか?日本語としての趣きが増したか?よく考えてみろ。

「どくせんじょう」が「どくだんじょう」に置き換えられても何ら向上する要素がないなら今を生きる我々は甘んじて「どくだんじょう」を用いながらも、その変化とやらに疑いの目を向けるのが自然な理路だろうに。

同じように「あらたしい」を「あたらしい」に変えて意思疎通が効率化したか?教養と文化水準が向上したか?日本語としての趣きが増したか?言葉を気分で弄くり回した先にあるのは概ね文化のアップデートではない。「摩擦と分断」だ。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
「摩擦と分断」を子孫に残すのが日本の文化ですか。そりゃ結構なことで。

余計な争いは他国からの侵略のスキを与えることにも繋がる。突き詰めれば「言葉は生き物」信者とは利敵行為をしている売国野郎。

言語という堤防を自ら破壊する日本人「言葉は時代に応じて変える」という堤防破壊行為は占領状態を更に強固にする恐れがある。「言葉は時代に応じて変えて構わない」というのを国防の立場から観れば「空想的平和主義」の色合いが濃い。その理由は「言語が持つ三つの性質」を知れば容易に導き出せる。では、その「言語が持つ三つの性質」とは何なのか。...

こんな大衆なら

語求(ごきゅう)
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投票率が低いのも当然
語求(ごきゅう)
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小泉が郵政民営化を押し通すことができたのも当然
語求(ごきゅう)
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一度、民主党政権になったのも当然
語求(ごきゅう)
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舛添、小池、大村、翁長などが知事に選ばれるのも当然
語求(ごきゅう)
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橋下や堀江がチヤホヤされ続けているのも当然
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
全拉致被害者を奪還できないのも当然

言葉を雑に扱うバカはもちろん、それを見過ごす「わたあめ」と「ななし」みたいな鈍感な善人も国の破壊者に成りかねないことを自覚しろ!!!!!!!!!

(略)

漢書で「世(せ)論」といってみても、それは「世にはびこる論」のことで、昔の「輿論」とは異なります。輿論というのは、「社会の台(輿)にいる庶民が心中に抱く常識」のことです。

そんな土台も庶民も常識もなくなったのが現代社会です。だから、言葉の土台も失われて、人々は目前に流れる言葉に束の間だけ唱和し、それが流れ去れば、自分の意見が何であったかさえ忘れてしまうという顛末です。

(略)

言語的動物に過ぎぬ人間が、おのれの存在の根拠である言葉を軽んじ壊し忘れていくというのは、無残としか形容の為し様がありません。

kotoba-heiwaboke
「言葉は生き物」という観念は平和ボケの産物である日本語の「適応」を続けてきたのは良い風習、「良習」と捉えることができる。「適応」を「現実主義」「プラグマティズム」と認識している人も少なくないだろう。ただ言語に対して「適応」「現実主義」「プラグマティズム」を突き詰めるとどうなるか。何十世代後か何百年後かはわからないが、形だけで中身はスッカラカンな日本語らしき何かになる...
「言葉を変えて何が悪い」とぬかすバカへ告ぐ。不完全なくせにこれ以上自由を望むな既存の語義と用法で申し分ないほど自由な表現が可能にも関わらず、更なる自由と制限の解除を求める。これは人間に高い理性が「恒常的」にあるという条件を必要とする。しかし、そんなものは二千年以上前に否定されている。条件は満たされない。飽きっぽいから定義や基準を変えたがる。恒常的に高い理性を保てない奴らには土台無理な話だ。...
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「言葉は変化するんだ!」その主張おかしいぞと思う人達へ俯瞰的な視点を持ち平衡感覚があると自負しているインテリ気取りの人間ですら「言葉は変化するんだ!」「言葉は生き物なんだ!」といった主張をするので、その時期は憤りすら感じていたものだ。だが、ようやく自分なりの論理を得たので言語化できるようになり、ブログで発信しようと思い立ったのである...

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「適切な言語感覚」を探求する者。「言葉の変化全肯定論者」の軽薄さと危険性を独自の視点で暴き出す。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人よ。あなたの言語感覚は間違っていない。そんな奴らに屈するな。国防に必要なのは核武装 と言語の保守だ。アイコンはユルいが50代の筋トレおじさん。