思いの丈を書きなぐってみた。長年の鬱憤として読んでいただきたい。
本当にロクデナシだね
実に尤もらしい。
だが
どうしてそこまで偉そうにできるのか。私は疑問と憤りを抱き続けてきた。
言語に対し感性が豊かな人たちは、生きていく中でこんな思いを沈殿させているはずだ。
そして、言葉を変化させて何が悪いとすら考えいている奴らに対してはこんな感情があるはずだ。
諦念と沈黙のストーリー
何故「言葉の変化ってロクでもないよね」「本当にロクデナシだね」という思いを沈殿させるようになったのか。およそ、こんなストーリーだろう。
感性が豊かな人たちは、既存の語義・用法で事足りている。ところが、無責任に語義や用法を扱う奴らが自由を曲解して平穏を乱す。
親切に情報提供したことも虚しく、反発される。
好ましい言語情報をシェアしてより良くしようという意識は全くない。
そして何十世代も前の世界に想いを馳せ、ため息をつく。
いくらため息をついたところで、これからも言葉遣いは踏みにじられ続ける。感性が豊かなだけに、その事実を直視することが辛くなり、諦念を道連れに沈黙する。
「言葉遣いが踏みにじられ続ける」この現象を描写するのにピッタリな概念がある。
言葉遣いが踏みにじられる様子を見ていると「声討(ソント/聲討/声闘/성토)」に近い場合もある。
恒常的に高い理性があるはずない
既存の語義と用法で申し分ないほど自由な表現が可能にも関わらず、更なる自由と制限の解除を求める。
これは人間に高い理性が「恒常的」にあるという条件を必要とする。しかし、そんなものは二千年以上前に否定されている。条件は満たされない。
飽きっぽいから定義や基準を変えたがる。恒常的に高い理性を保てない奴らには土台無理な話だ。
政治と経済の領域では、人間に高い理性を見積もった結果、社会が混乱し、無駄な血が流れ、貧富の差が拡大した。
同盟の提案を蹴り、世界秩序の理想論を掲げたウッドロウ・ウィルソン。あの綺麗事を押し通さなければ、第二次世界大戦は勃発しなかったと言われている。
第二次世界大戦で被害を受けた人々からすれば、こいつの墓を暴いて放射性廃棄物をブチ撒けても足りないくらいだ。
ヒト・モノ・カネの自由な移動という綺麗事で推し進められた第二次グローバリズム。経済学者は唱和した。
アダム・スミスが道徳感情論で述べた前提条件を忘れ、自他の理性を過大評価し、無制限の自由と変化を希求する。
結果は、金融バブル・リーマンショック・所得格差増大。
その揺るぎない歴史的悲劇から、なぜ文化の領域だけが逃れられるのか。誰か説明してくれたまえ。
制限を緩め拡大した自由でもって言語を扱うとどうなるのか。よく考えてみろ。
さっさとくたばれ自惚れ野郎
完全な人間なんていない。
不完全な存在である事実から逃れられない人間に無制限で無軌道な自由・変化を扱えるわけがない。
どれだけ社会が混乱するか考えてみたまえ。だから枠組みが必要なのだ。
何が時代の使い勝手で変えて良いだよ!!!!!!!!
軽々しく「言葉は変化する」だの「言葉は生き物」だのほざいてんじゃねーーーーーーーーーーーーぞ!!!!!!!!!!ボケナス!!!!!!!
お前らが自由を拡張した末に枠組みをぶち壊して言語としての役割を維持できるわけがないだろ!!!!!!!!
さっさとくたばれこの自惚れ野郎!!!!!!!!
おわり。