今回はいつもとは違う角度から言葉について語る。
言葉は己を求め、己は言葉を求める
ブログで「ほしょうはない」と書こうとして、キーボードを打つ手が止まった。
「ほしょう」は「保証」なのか「保障」なのか「補償」なのか、と。
各々の語義を調べて「保証」が妥当かな?と判断したのだが、その後、書籍や記事を読んでいて「ほしょう」がよく目に止まるようになった。
なるほど。「保障」を用いるべき状況とはこういうものなのか。こんなときに「補償」と書くのかといった感じで、遣いどころが掴めてくる。
そんなことを繰り返しているうちに「この文脈からすれば『保証』はおかしいのではないか」と、考えたりできるようになった。
どの熟語から選び出し「ほしょう」と表現するのか。これは非情に「贅沢」だなとしみじみ思う。
己の感情や思考と表出を一致させる。もしくは状況や事象を正確に描写する。これらを実際に為せるのは選べる言葉が多いからだ。これがいかに贅沢であるかを私は今頃になって噛み締めている。
正確に言い表したり描写ができる。これを裏から見れば「意思や感情の明確化」や「状況や事象の繊細な把握」を己に求めることだ。
「この湧き上がる感情は何ぞや」「この出来事の状況と実態は何ぞや」と我が内に問いかけなければ、色彩と濃淡と立体感のない表現になってしまう。
感情には「喜怒哀楽」では表せない色彩と濃淡があるだろうし、事象には複数の構造要素が含まれている。
言葉は己を求め、己は言葉を求めるのだ
言語貧乏
しかし、世の中を見渡せば、その贅沢を知らないどころかわざわざ放棄する人に溢れている。
いくつか例えを挙げてみよう。
上記の文章を読んで何も感じないなら、あなたは贅沢を自ら捨てた「言語貧乏」である。
次項でどこが「言語貧乏」なのか一応説明しておこう。
「可能性」
流産に「可能性」なんてあって良いのだろうか。そんなことはないはずだ。しかし、実際はこのような「可能性の一元化」が進んでいる。
検査や流産という出来事に際し人はそれぞれの想いを抱く。その想いを表す言葉は決して「可能性」ではなく別にあるはずなのだ。
「恐れ」「危険性」「場合」「懸念」「リスク」などがそれにあたる。
流産に限定せず、もう少し広い範囲の出来事で見れば「疑い」「疑念」「疑義」「懐疑」「蓋然性」「確率」といった言葉も選択肢に入る。
にも関わらず「可能性」に一元化されている現実。「言語貧乏」と呼べないだろうか。
「可能性」の一元化については別記事でも触れている。
「課金」
本来は「納金」や「支払い」や「購入」である。ところがゲーム界隈では「納税」と「課税」のように区別されることなく「課金に一元化」されているのだ。
「可能性」にも言えることだが、本来の言葉を「対義語」が上書きする状況が起こっているのだ。これもまた「言語貧乏」だと私は考える。
「断捨離」
私は「断捨離」の実像がまるで掴めない。スピリチュアルの臭いがプンプンするだけだ。
確かに部屋の整理は効率を上げたり無駄遣いを諌めることができる。だが「断捨離」という表現を掲げてするべきことだろうか。とても胡散臭い。
「女子力」
この言葉に至っては未だに定義できていないのではなかろうか。定義不明の言葉を用いるのは、自分が何を考えているのかわかっていない状況であることの証左。
近年、やたら「〇〇力」なる言葉が作られているが、その「力」とは何を示しているのか漠然としていてさっぱり意味がわからない。
内面が不明瞭なときにはボンヤリとした言葉を選ぶ。まさに「言語貧乏」そのものである。
「力」という意味をわかっていない/出版社も犯罪的
「草」
ただの「反射」。膝をコンと叩いてスネがピョンと上がるのと同じレベル。熱湯に触れるとビクッとなるのと同じレベル。
「言語貧乏」の最たるもので、パッパラパーのNOミソである。
「刺激と反応(stimulus and response)」
「ヤバい」「クッソ〇〇」「普通に〇〇」「それな」「草」が癖になっていれば、それはもうホームレス同然の「言語破産者」レベル。
三鷹アサヒ君のような突き抜けたアニメキャラなら可愛気があって良いのだが、現実はそうはいかない。
#三鷹アサヒ生誕祭2018 アサヒくんマジおめでとう!これからもマジヤッベー活躍をちょー楽しみにしてます!🍳☀ pic.twitter.com/frSxyRRvbS
— 5.5 (@5te5o) December 31, 2017
一億総ボケ社会
前項で例に出した表現に共通するのは、内(思考)と外(言葉)がバラバラな状態ということ。
内と外がバラバラな状態を続けているとどうなるか。「徐々に無思考へと至る」のだ。「女子力」と「草」は既に「思考を放棄している域」に達している「無思考状態」なので救いようがない。
まさに「一億総ボケ社会」だ。まったく、日本人は「再考」だぜ!!
マスコミとの連携プレイ
つい先日のことだ。
テレ東BIZの動画配信タイトルが視界に入り非情に不快だったため、用法の誤りに「テレ東さっさと潰れろ!」と付け加えメールした。
「ウクライナ情勢変化で“台湾有事”の可能性は?」
と書いていたからだ。
建前として正確に情報を伝える役割を担うマスコミが率先して「言葉の一元化による言語貧乏」を推進している現状。「自称保守」が大好きな産経でも実態は変わらない。産経にもメールした覚えがある。
だが問題は、こんな表現を許している我々だ。我々が「言葉の一元化」を受け流し許し続けているからこのような表現が堂々と幅を利かせるのだ。
「マス・コミュニケーション」なのだから、日本人の言語感覚の鏡像であるのは当然である。
結局のところ日本人は「マスコミとの連携プレイ」で「言語貧乏化」を推し進め「一億総ボケ社会」に堕していく。
我々は他国に対し「防火」と「放火」を区別する言葉がないと嘲笑している場合ではない。
保守を自負し、マスコミの言葉遣いを批判している「チャンネル桜」ですらこの有様。
好ましい表現に訂正した下記画像をチャンネル桜のTwitterアカウントにレスしたが、いつも通り全く反応がない。
「言語貧乏」は搾取される
「言語貧乏」を推し進め「一億総ボケ社会」になった我々を待ち受けているのは「搾取」である。
もう一度この文章を思い出して欲しい。
「課金」の搾取
「課金」の意味を考えることすら放棄している者達や「課金ではなく納金だ」と情報提供してくれている人を「言葉は変わるんだ!」と集団リンチのごとく返り討ちにして「修正アップデート」しない者達がいる。
奴らは絶妙なタイミングで開催されるイベントに射幸心を煽られ自制を失い、運営会社に驚くほどの金銭を「上納」していることにすら鈍感になっているのだろう。
プレイヤー側が「課金する」という表現を遣い始めたのは「語義を考える余裕を奪われた」からだと思われる。いわゆる「ソーシャルゲーム」が主流になるにつれ各運営会社は「課金システム」を導入していった。
巧みなイベント構成で射幸心を煽られ自制を失ったプレイヤーは「語義を考える余裕を奪われ」「納金する」より「課金する」の方が表現しやすいしカッコイイという深層心理が働いたのかも知れない。「課題をクリアする」というノリで。
奴らの中で「課金」は「投資」や「積立」であるかのような錯覚さえ起こっているのだろう。アホ丸出しである。
その一方で、数時間掛けて「数百円単位」の価格差しかないPCパーツを選び「コスパコスパ」と書き立てる始末。バカそのものである。
「断捨離」の搾取
「断捨離にアテられ」必要なものさえ捨ててしまった反動で「断捨離と銘打って」メルカリに出品するも、届く通知は「値下げ交渉」と「いいね」ばかり。送料と手数料を考えたらそんなに値下げできるわけないだろ!と憤慨する。
もはや「買う気のないいいね禁止!」という注意書きをしている自分に矛盾を感じなくなり、更に売れなくなる泥沼にハマってしまう。
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「女子力」の搾取
個人売春を「パパ活」なる言葉にすり替え自らを欺き、男にイヤイヤ付き合いもぎ取った金銭。
そんな「あぶく銭」を服飾から占いサイトにまで溢れる「女子力アップ」というワードに乗せられ無駄遣いする。そしてまた個人売春を行い、ついには人間不信という貧困に身を落とす。
人間不信からホストクラブ通い。借金地獄から逃げられなくなる。
「言語貧乏」に入り込む「搾取ワード」
「言語貧乏」でスッカラカンになった頭の中に入り込むのはこういった「搾取ワード」なのだ。
「課金」というファイナンシャルワード
「断捨離」というスピリチュアルワード
「女子力」というキラキラワード
これらの言葉に搾取され、ますます貧乏になるのである。
言語貧乏から抜け出す方法
言葉を適切に選択しない、もしくは選択できないのはとても貧しい状況だということが理解できただろうか。
もし理解できたのなら、言語貧乏から抜け出し搾取されない方法は簡単にわかるだろう。
「心と言葉の接続を安定させること」
これが言語貧乏から抜け出し「贅沢」を取り戻す方法だ。
己と言葉の接続が悪いと他者との通信もままならない。通信が悪く余裕がないと判断力が鈍り不要な買い物をしてしまう。
そんなことにならないために「可能性」という用語が自分の心と確実に接続されているのか「課金」という単語が自分の心情と接続不良を起こしていないかをよく見つめるべきである。
「草」と書くのはあなたの心が存在していないのと同じだ。あなたの心がないのだから接続しようがない。
よって誰にも伝わらない届かない響かない。「言語破産者」は存在しないのと同じである。
日本人は全体像を見ることが苦手
(略)
漢書で「世(せ)論」といってみても、それは「世にはびこる論」のことで、昔の「輿論」とは異なります。輿論というのは、「社会の台(輿)にいる庶民が心中に抱く常識」のことです。
そんな土台も庶民も常識もなくなったのが現代社会です。だから、言葉の土台も失われて、人々は目前に流れる言葉に束の間だけ唱和し、それが流れ去れば、自分の意見が何であったかさえ忘れてしまうという顛末です。
(略)
言語的動物に過ぎぬ人間が、おのれの存在の根拠である言葉を軽んじ壊し忘れていくというのは、無残としか形容の為し様がありません。