とりわけインターネット上の言語空間で頻繁に目にする「草」という表現について語る。
「草」は意見にあらず

「草」と書いているのを見てあなたはどう思うだろうか。
なんて答える人がいるかも知れないが、実は全く意味を内包していない。その言語空間に参加している証を残したいだけなのだ。
参加している痕跡として、とりあえず「草」と書いているに過ぎない。
最初は勿論「笑う」「笑った」のような意味合いが含まれていただろうが、目新しい言葉に飛びつくアホバカマヌケ共の手に渡ると、意味なんてものは即座に揮発してしまう。
あらゆる場所で「~は草」だの「~で草」だのと書いている奴らは、意見を言語化して表現する作業をサボる怠け者であるが故に、己の頭から意見そのものが揮発していることにすら気付かない。
「どうでもいい」というコメントも「草」に近いものがある。「どうでもいい」ならコメントする必要はない。にも関わらず「どうでもいい」書いてしまうのはまさに「参加している痕跡」であり、それ自体が目的なのだ。
意見や思考なんてあろうはずがない。
「除草剤」で根絶やしにしたくなる
言語空間における「草」は所構わず繁殖し群生し場を荒らす。まさに「草ボウボウ」であり「雑草」そのものなのだ。
昭和天皇はこうおっしゃられた。
なんと慈愛に溢れた言葉だろう。
しかし、今や言語空間に生い茂っているのは、紛うことなき「雑草」である。「草」と書くような奴らは「慈愛」ではなく「自愛」しかない。故にまさしく「雑草」と呼ぶべきものなのだ。
これだけ至るところで「草」が繁殖しているのを目にすると「除草剤」で一気に枯らしてしまいたくなる。
もし、企業がネットスラングとしての「草」を用いるならばリスクを覚悟すべし。