テレビ/ラジオ/新聞/ウェブサイトなどの「可能性」の用い方には首を傾げることが多い。
疑わしいことにも「可能性」危険な対象にも「可能性」。しまいには「できない」ことにも「可能性」があるそうな。
まさに「可能性による言葉の集約化」である。
だが本当にそれが好ましいことだろうか。安易な「可能性」の用い方に内心で傷ついている人もいる。デリカシーがないと胸の内で嘆いている人もいる。
私達は「可能性による言葉の集約化」に、そろそろ危機意識を持つべきなのだ。
この記事で得られること
兄弟姉妹と防火放火
この例文をご覧いただきたい。
この意見に説得力を持たせるとするならば「可能性」以外に選べる言葉がないという前提が必要になる。
前提1.「brother」「sistar」
英語のように「兄弟」や「姉妹」を区別せず「brother」「sistar」という単語程度しかない場合。
前提2.「防火」「放火」
ハングルの「防火」「放火」のように同音かつ同表記である場合。
ハングルは「防火=放火」のみならず「史記=詐欺」や「無力=武力」など多くの言葉が同表記のため、選択肢が少ない。
一方、日本語の場合は音も表記も別に存在することが多く、先述した例文が「全ておかしい」根拠もここにある。
「可能性」という単語しかないなら仕方ないが、他にいくらでも言葉があるのだからそちらを選ぶほうが適切。
例文を好ましい表現に訂正する
では先の例文を好ましい表現に訂正してみよう。
誤:このソフトウェアでは編集できない可能性があります
正:このソフトウェアでは編集できない恐れがあります
誤:このままだと死ぬ可能性がある
正:このままだと死ぬ恐れがある
正:このままだと死ぬ危険性がある
誤:他殺の可能性もあると見て捜査しています
正:他殺の疑いもあると見て捜査しています
誤:ガンが再発する可能性があることをご理解ください
正:ガンが再発する危険性があることをご理解ください
正:ガンが再発する恐れがあることをご理解ください
正:ガンが再発する疑いが残っていることをご理解ください
カタカナ英語も含めると選べる言葉はこんなにある。
危険性
恐れ
危惧
リスク
疑い
疑念
疑義
懐疑
難しいならこの言葉を選べばOK
確率
ガンが再発する確率は5年で30%
ケース
40代以上だと流産するケースが多い
状況
北朝鮮が韓国に核兵器を使用するという状況も想定すべき
場合
適度に水分補給をしないと命に関わる場合もある
事態
台湾がシナに侵攻される事態も考えておかなければならない
かも知れない
ウイルスの被害が拡がるかも知れない
なりかねない
見通しの悪い道路では衝突事故になりかねない
ありえる
いずれアメリカの大統領を目指す(シナ人も)ありえる
例文の補足
これらの例文について補足しておく。
直接的な被害や不利益がないなら「恐れ」や「危険性」はしっくりこないかも知れない。だが「可能性」を用いるのは無粋。
そういった際に「場合」「事態」などを選ぶ。すると、うまく文章がまとまる。
「台湾がシナに侵攻される事態も考えておかなければならない」
これは「危険性」ではなく「事態」を用いたが「日本に直接的な被害や不利益がない」と判断している故。とはいえ、いずれは「危険性」が増し「恐れ」を抱くようになるのだが。
台湾と日本は断交中であるものの、友好国という共通認識が根強い。加えて、台湾は日本にとって重要な海上交通路に関係する。いわゆる「シーレーン」だ。
日本人としては自国を侵略されていない。よって「恐れ」や「危険性」などの言葉はしっくりこない。これはあくまでも「現時点において自国を侵略されていない」という条件付きである。先を見通している人なら迷わず「危険性」や「リスク」などを用いるだろう。
それでも迷ったら三つの言葉だけ選ぶ
遣い分けがよくわからない場合は次の三つの言葉から選ぼう。
「かも知れない」
「場合」
「リスク」
訂正例:
セキュリティレベルが低い端末の可能性があるため、アプリを起動できませんでした。
↓
セキュリティレベルが低い端末によるリスクがあるため、アプリを起動できませんでした。
「可能」に内包される印象や感情
もうおわかりだろう。「可能性」を用いる場面は意外なまでに少ない。そして、他の言葉と比較すると、あることに気付く。それは何か。「可能」という表現には多分に前向きな印象や感情が含まれる。
好転する、希望がある、成功する、見通しが立つ、明るい
こういったものだ。
印象や感情を蔑ろにした表現
「編集できない」
これは事態の停滞を意味している。編集作業が仕事の一環ならば、見通しが立たないということだ。
しかも、編集できない可能性ってナゾナゾか何かか?「編集できない=編集不可能な状態」なのに?
「ガンが再発する」
これが好転であるわけがない。希望があるはずもない。ガンが再発する可能性とは酷い表現だ。
「可」だけになっても前向きな印象は消えない
「能」を省き「可」の一文字になれば、内包される印象や感情は薄れるだろう。「可謬性(かびゅうせい)」という例外的な用語の存在からもそれが伺える。
「可死性」も極々特殊な条件下では必要な言葉だろう。
とはいえ「可」だけになってもやはり前向きな印象は消えない。「可否」は「はい」か「いいえ」か、という簡潔な意味合いである。
しかし「肯定」か「否定」か、という意味合いでもあるため、やはりそこには感情が潜んでいると考えるべきだろう。
可能性を「用いるべきではない」五基準
前項目を踏まえ、可能性を「用いるべきではない」基準を挙げておこう。
五つの基準を提示しているが、この順序にも意味がある。1が最も優先される基準。5が最も優先度が低い。
1.~ない/不可能な状態
2.自分が被害にあう/不利になる
3.「家族/組織/共同体/同種/同族」が被害にあう/不利になる
4.自国が被害にあう/不利になる
5.自国にとって重要な存在が被害にあう/不利になる
1.~ない/不可能な状態
そもそも日本語としておかしい。「~ない=不可能/不可/不能/不適」なのだから。
「できない可能性」はすなわち「不可能可能性」。「できない/ならない/されない」など「~ない」で終わる言葉に可能性を用いるのは明らかな間違い。
「できなくなる/されなくなる」も同類。
「不」が含まれる言葉も同じ。
「不合格になる可能性」というのは「不合格=合格できない=合格不可」のだから、あからさまな間違いである。
【1.~ない/不可能な状態】を基準の最上位にしたのは、不適切である以前に「間違い」だからだ。
2.自分が被害にあう/不利になる
「殺される可能性」という表現について考えてみよう。
殺される対象が自分なのか他者なのかという線引きである。
「私が殺される可能性」と表現するのは、あまりにも自分を蔑ろにしている。
では「父親が殺される可能性」はデリカシーの欠けた表現だろうか。
もし父親がこんな人間だったら「殺される可能性」という表現もやむなし。
それでもやはり「父親はいつか殺されるかも知れない」程度にしておくほうが無難である。
ならば「竹中平蔵が殺される可能性」はどうだろう。
この表現は心情的に肯定できる。だが、やはり適切とは言い難い。「殺される確率」あたりが妥当。
本音で言えば「竹中平蔵が殺される可能性」という表現を「あえて」用いたくなる。
「死ぬ可能性」という表現は先の例文でも示したとおり。著しくデリカシーを欠いている。
逆に「生きている/生きていた可能性」という表現ならもちろんOK。
3.「家族/組織/共同体/同種/同族」が被害にあう/不利になる
「妻は認知症の可能性がある」
これは適切な表現と言えるだろうか。答えは否。ただし、離婚寸前の冷めきった夫婦であるならば許されると言う人もいるだろう。
それでも「妻は認知症の疑いがある」と表現するほうが素直だと私は考える。
忽然と姿を消した日本人への思いやりが全く感じられないこの表現に、同胞として腹立たしさを覚えないのはどうかしている。
私は即座に警視庁に意見を送った。
だが、未だに訂正されていない。一人でできることはたかが知れている。
4.自国が被害にあう/不利になる
「日本核攻撃への可能性」という表現。
私からすれば、かなり言語感覚が狂っている。
この文言を掲げ番組を配信した「日本文化チャンネル桜」は「日本文化を大切にしたい」「日本を真の独立国にしたい」という信念の元に活動している。
活動の一環として、マスコミの言葉遣いに対する批判も多分に含まれているチャンネル桜だが、こんな酷い表現を平気でできる媒体が果たして他所を責めることができるのか大いに疑問だ。
こんな言葉遣いをしていて何が「日本文化」チャンネル桜なのか。応援している身からすれば複雑な気分になる。
「日本核攻撃への可能性」のような無粋な表現こそマスコミの悪癖そのものではないか。そんな悪癖を刷り込まれていることに気付かないのは恥である。
「北朝鮮が滅亡する可能性」
日常会話でなら用いても良いレベルと言えそうだ。ただし、公に発信する場合は控えるべき。
5.自国にとって重要な存在が被害にあう/不利になる
「台湾侵攻の可能性」
【例文の補足】の項目で述べたとおり、台湾は日本にとって重要な海上交通路に関係する。
自国にとって重要な存在に当てはまるため、「台湾侵攻の可能性」という表現は不適切。
では、「ロシアがウクライナに核兵器を使用する可能性」という表現は適切だろうか。
ロシアと日本は対立関係にある(主に北方領土)
だが、ウクライナと日本に大きな利害関係はない(重要な存在ではない)
「対立関係国ロシアvs重要度低いウクライナ」ならどちらを優先する?
不適切
「ロシア酷い、ウクライナかわいそう」なら「可能性」は適切
「ウクライナはロシアを追い詰めたい米国の手先」と知っているなら「可能性」は不適切
「ロシアとウクライナは双方被害国」と見るなら「可能性」は不適切
シンプルに戦争に関わることに「可能性」はロシアとウクライナの戦争については、事に至る背景を知っているか否かで変わってくる。
とはいえ、わざわざ「可能性」を用いることに必然性は全くない。
よって日本人としては「ロシアがウクライナに核兵器を使用する確率」あたりが妥当と思われる。
報道機関や企業の場合
報道機関や影響力の強い企業、情報発信者などは公平性を重視しなければならない。よって「可能性」を安易に用いることは許されないと肝に銘じてほしい。
可能性による言葉の集約化
「可能性」以外に選べる単語が沢山ある。そこから、観念や概念をいかにして表そうかという先人の想いが伝わってこないだろうか。
言葉についてこんな意見を目にしたことがある。
細やかな概念や感情などの描写は言葉の数に現れているということだ。
日本語は議論に不向きな反面、描写には好適である。それを踏まえた上で現在必要なのは、一段階上の言語表現だ。
だが、現実は一段階上どころか「それ、本当に日本語なのか?」という表現が蔓延している。「可能性による言葉の集約化」はその典型。
定義と体裁の喪失
「可能性による言葉の集約化」は言語崩壊の一現象だと私は観ている。一現象でしかないと言うべきだろうか。
可能性の多用には二つの問題がある。
1.定義の喪失
2.体裁の喪失
悪い出来事にも不可能な状況にも「可能性」という単語を選択する。これは定義の喪失に繋がる。
すると、日本語としての体裁が保てなくなる。体裁の喪失だ。
死ぬ可能性
こういった表現に何ら疑問を抱かないならば、あなたの言語感覚は狂わされていると捉えるべき。
言語感覚が狂わされてくると論理的な思考や表現ができなくなる。それが続くと倫理や道徳の欠如という恐ろしい事態に至る。
無自覚な暴言
「親ガチャ/子ガチャ/ワンオペ育児/ギャン泣き」や「飯テロ/ゲリラ豪雨/リベンジ」や「クソかわいい/クッソうまい/ガチ」などの表現。
これらを単なる言葉遊びや便利な表現としか思わなくなる。倫理や道徳の欠如した表現であるにも関わらず。
「女子力」「ネトウヨ」「カワイイは正義」などの定義不明の言葉が日常化してしまったのは、言語感覚が狂わされて、論理的な思考を奪われ、倫理や道徳が欠如したからだ。
「ヤバい」「~すぎる」「神~」「最強」「号泣」などのタイトルが、数多の情報媒体を席巻しているのは、日本中がバカ化に突っ走っている証拠。
日本語になっていない
上記の表現は「日本語の体」を成していないことにお気付きだろうか。
もし気付かないなら、あなたは定義と体裁の喪失がかなり進んでいる。「コスパ」と「ゲームプレイヤー」は英語だろ、という野暮な指摘はいらない。
論理性が崩れ、日本語の美点である解像度すら低下する。選べる贅沢を捨て「可能性」で済ませてしまうような日本社会は異様だと自覚すべきだ。
護国派の誤用事情
「可能性」の誤用は「護国派」にも蔓延している。具体的な話に入る前に「護国派」について解説しておこう。
「保守派=護国派」と捉えていただいて問題ない。中道を模索している人は総じて「護国派」である。
「護国派」と呼ぶことにしたのは「保守を名乗ったこともなければ名乗るつもりもない」と表明する三橋貴明氏みたいな人間がいるためだ。
三橋貴明氏は日本の良き未来のために活動しているので「護国派」と言っても差し支えない。
「護国派」は当然、言葉の変化や誤用に厳しい目を向けている。とりわけマスコミへの目は厳しい。
その護国派でさえ「可能性」を適切に選択している者は一人もいない。あくまで私の知る限りだが、本当にただの一人もいないのだ。
安藤裕氏はかろうじて「恐れ」「危険性」「懸念」を用いる頻度が高い。しかし、完全に遣い分けているとは言い難い。
水島社長のお粗末な言葉選び
チャンネル桜については先程も少し触れたが、とりわけ酷いのが水島総社長である。
水島社長も「護国派」で間違いない。私は活動家としての水島社長が好きだ。チャンネル桜を作ったことや街宣活動にも頭が下がる。
定期的に開かれる討論も非常に有意義だ。チャンネル桜の討論から学んだことは数知れない。
何を隠そう、私は水島社長が立ち上げた政党「くにもり」の支持者であり、「国守衆」の一員でもある。
このように私は水島社長に好感を抱いている。だからこそ、あえて意見を述べなければならない。
水島社長は可能性病
十年以上に渡り、水島社長の言動を見てきたが「恐れ」「危険性」「懸念」「リスク」「確率」などの言葉を選んだためしがない。
全て「可能性」で済ませている。もはや「可能性病」としか言いようがない。
【可能性病】水島総社長のお粗末な言葉遣い【言葉の集約化】
こんなお粗末な言葉選びをしておきながら「シナリオライターやっていましたから」なんて恥ずかしくないのだろうか。
数々のテレビ番組の脚本を努めてきた割には、その表現力に首を傾げることが少なくない。
今の若者は200語程度しか言葉を遣わないと嘆くが、自らは「アレ」「形」という口癖がなおらず、何でもかんでも「可能性」を用いる。
西部邁先生がご存命の頃は、曲解した上にしゃしゃり出てきて議論の腰を何度も折っていた。的確な言葉選びができず議論が空転したことも数知れず。
佐藤健志氏の厳しい意見にも「刺激的なアレ」という頓珍漢な言葉で反発していた。
話し言葉での誤りは受け流すべきか
水島社長は確かに「可能性による言葉の集約化」の典型だ。しかし、語義や語源を大切にしたあの西部邁先生ですら「可能性」の遣い分けは不十分だった。
議論や日常会話で誤用はつきもの。故に文章(書き言葉)以外の誤りは受け流すべきという意見も一理ある。だが、限度を超えていると考える私からすれば、やはり許容できない。
何度も意見を述べたが
私は気になる可能性の遣い方を見聞きする度に意見を送っていた。
「護国派」が集うチャンネル桜に対しては何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、メールやコメントで好ましい言葉の選び方を伝えてきた。それこそ十年以上。
Twitter(X)でも訂正画像付きで指摘したことがある。あくまでも情報提供という心持ちで。その甲斐も虚しく、改善された様子はまるでない。
水島社長は相変わらず「可能性」を多用している。
こうなると本当に水島社長に伝わっているのか疑がわしい。
スタッフは私のメールやコメントを削除しているのかも知れない。「もっと大切なことがあるだろう」と言わんばかりに厄介者扱いしているとも考えられる。
だが、日本文化を守るべくマスコミの表現を批判するならば、「可能性」の遣い方くらいマスターして然るべきではないか。
水島社長を始めとする護国派に告ぐ
可能性から脱してみよう
「メクラ」「ツンボ」「カタワ」は差別用語だ!
「障がい者」「はく奪」「団らん」「殺りく」という表記を徹底してください!
そう言うのなら「流産する可能性」「できない可能性」「襲われる可能性」といった乱暴な「可能性」の扱い方も問題視しろと訴えたくなる。
「飯テロ」「ゲリラ豪雨/ゲリラライブ」「リベンジ」などの表現が日常化する。これは異様な状況だ。
もしや我々は言語感覚を麻痺させられているのでは!?
まずそこから始めてみては如何だろうか。
蓋然性(がいぜんせい)を遣ってみよう
今のところ馴染みは少ないが「蓋然性(がいぜんせい)」も便利な言葉だ。
「蓋然性=事柄が起こる確実性/確からしさ」。「蓋然性」とは「確率」に近い言葉。
蓋然性の使用例を集めた動画を用意したのでよろしければご覧いただきたい。
「可能性」の誤用を疑問視する人たち
『可能性』と『恐れ』はどう違うか?
東電福島原発のニュースでは、例として「メルトダウンの可能性がある」という表現が目立ちます。
私の言語認識では、この表現は「メルトダウンが起きてほしい」と同義です。私が言うならば、「メルトダウンの恐れがある」です。
『可能性』の乱発には、なんとも違和感を覚えてしまいます。この違和感を覚えるのは、幸いにして私だけではありません。『Yahoo 知恵袋』では、利用者の疑問、質問に、別な複数の利用者が回答しています。
「可能性」と言う言葉の使い方がおかしい
(略)
何がおかしいかと言うと、どちらも程度の問題なのだが、「可能」とは「出来る」であり、その「出来る」は「完成する」の意味もあるが「能力がある」の意味もある。どちらも前向きとかプラスの意味である。
(略)
例えば「解雇される恐れは十分にある」とか「十分高い」にすれば済む。「恐れ」と言いたくなければ、まるで違う表現にすれば良いのである。
例えば「解雇される予想は十分につく」とか「解雇される場合は十分ある」などと。安易に「可能性」に頼ってしまうから、工夫をしない。そこで「可能性」はマイナスの意味をも十分に持てると思われてしまう。
これは日本語を堕落させる要因の一つである。言葉の持つ語感を大切にせず、矛盾する意味さえ持たせてしまう事が日本語の発展になるはずが無い。
何でも一つの言い方で済ませてしまうのが結構はやっているらしいが、それは5以上は「たくさん」で表して、数詞としては1、2、3、4と「たくさん」だけしか無いと言う民族と似ている。
その使い方あってますか?『可能性』という言葉の本当の使い方
●「可能性」は未来に向けて期待を込めた時にしか使うことが出来ない言葉
「可能性」という言葉を辞書で引いてみました。
物事が実現できる見込み。例:「成功の可能性が高い」
事実がそうである見込み。例:「生存している可能性もある」
潜在的な発展性。例:「無限の可能性を秘める」
認識論で、ある命題が論理的に矛盾を含んでいないという側面を示す様態。
デジタル大辞泉より引用例文を添えて辞書にちゃんと書かれてましたね。
解説も例文も全て”見込み”がある場合や、未来への期待が込められた場面での使い方になっています。というように、「可能性」という言葉は未来に向けて期待を込めた時に使うべき言葉なんです。
「可能性」と「おそれ」の使い分けについて。
(略)
しかし、最近TVのニュースなどを見ていると、「台風上陸の可能性」や「殺人事件の可能性」など、どうみても事態が悪くなるときにも「可能性」を使っています。
「可能性」「おそれ」の意味、そのほか、適当な言葉があったら教えてください。
ベストアンサーに選ばれた回答
かのう‐せい 【可能性】
1 物事が実現できる見込み。「成功の―が高い」
2 事実がそうである見込み。「生存している―もある」
3 潜在的な発展性。「無限の―を秘める」
4 認識論で、ある命題が論理的に矛盾を含んでいないという側面を示す様態。おそれ 【恐れ・畏れ・虞】
1 こわがる気持ち。恐怖。不安。「将来への漠たる―」
2 敬い、かしこまる気持ち。畏怖(いふ)・畏敬(いけい)の念。「神の偉大さに―をいだく」
3 よくないことが起こるかもしれないという心配。懸念。「自殺の―がある」上記に書き示しているように、あなたの記憶が正しい。
最近のマスコミは、言葉を正しく使えていない。一般人は、自分が使っていれば間違っていても正しいと言い張る。そんな人には、辞書は要らんのだな?
「可能性」の扱い=身だしなみ
「可能性」という単語を適切に扱う。
これはマナーや身だしなみの一部だと私は考える。
爪を整える、無駄毛は処理する、衣服のシワを伸ばす、靴を磨く、邪魔にならないように歩く、席を占領しない、など。
マナーや身だしなみについて、直に注意やアドバイスしてくれる人は非常に少ない。
だが、相手の心の中で評価が下がる。
そんな心理が働くものなのだ。
「可能性」という単語の扱い一つとっても同じ。
あなたのセンサーが反応せず、デタラメに「可能性」を遣っていたら、議論や深い会話ができないと判断されるかも知れない。
そうなれば、あなたは信頼されなくなる。
まとめ(結論)
では、まとめてみよう。
1.「可能性」を遣う必要はない
2.迷ったときは「かも知れない」一択(ほぼ全てに遣える)
例:「生きているかも知れない/死んでいるかも知れない/できないかも知れない」
3.硬い表現が必要なら「場合」「リスク」を選ぶ
例:「生きている場合がある/死んでいる場合がある」「死ぬリスク」
余談
言葉全般について。興味があればご覧いただきたい。