言語に関する考察

「言葉は生き物」という観念は平和ボケの産物である

kotoba-heiwaboke

今回は「言葉は生き物」という観念について掘り下げてみよう。

言語の変化を巡る議論で「言葉は生き物」なる観念を主張する人が非常に多い。

もはや絶対の摂理のように語られるこの観念に私は疑問と危惧を抱いている。

なぜ疑問と危惧を抱いているのか。その理由を綴ってみた次第だ。

ただ、一部、論理性に欠け妄想に近い考えが含まれているので、それを踏まえた上でお読み頂けたら幸いだ。

間違いを指摘する弊害

語義や用法の間違いを指摘すると次のように抗弁されることがよくある。

「いちいち間違いを指摘するな」
「伝われば良いだろ」
「聞き手が汲み取るべき」

など。

抗弁したくなる気持はごもっとも。頑なに文意を読み取らず指摘ばかりしていると弊害が出るからだ。

弊害とは次の四つである。

指摘ばかりする弊害

1.円滑な会話が成り立たない
2.結論にたどり着けない
3.相手の人間性を否定することに繋がる
4.相手の良さを引き出せない

これら四つの弊害は「共同体や社会の円滑な営みの阻害」を意味する。故に多くの人が抗弁に同調するのだろう。

文意や状況を読み取ろうとせず指摘ばかりしている人は社会不適合者と判断され「空気を読まない」「大人げない」と言われても仕方ない。

指摘への反発は「空気を読まない」人間への妥当な対応なのだろう。

当然ながら下記の観念を持ち出し痛烈な反撃をしたくなるのも理解できようというもの。

「言葉は生き物」
「言語の本質は変化」
「その時代に生きる人の使い勝手で変えて構わない」

適応という「良習」の先に待っている日本消失

共同体や社会の円滑な営みは大切だ。そのために「その時代に生きる人の使い勝手で変えて構わない」という「適応」は致し方ないかも知れない。

「適応」とは「空気を読む」ことであり、空気は雰囲気と言い換えられる。雰囲気とはその場の状況。雰囲気を把握し合わせていくというのは高度な能力だ。

「空気を読む」「雰囲気を把握し合わせていく」

これらは高度な能力による知性のある振る舞いであることは疑う余地がない。日本語の「適応」を続けてきたのは良い風習、「良習」と捉えることができる。

「適応」を「現実主義」「プラグマティズム」と認識している人も少なくないだろう。

ただ、言語に対して「適応」「現実主義」「プラグマティズム」を突き詰めるとどうなるか。

何十世代後か何百年後かはわからないが、形だけで中身はスッカラカンな日本語らしき何かになる。

そうなれば、もはや言語を失ったも同然。「適応」の名のもとに言語を蔑ろにした当然の結果である。

「プラグマティズム」は「プラクティカリズム(実際主義)」に変質しやすい。「プラクティカリズム」は「場当たり主義」と私は解釈している。

プラグマティズムとプラクティカリズム

「言葉は生き物論」と「従米思想」との共通点

それはあたかも「状況適応の外交」や「状況適応の防衛」といった目先の適応を続けていくうちに自主独立の精神を失い「米国に寄り添っていれば大丈夫」という親米、拝米、従米、媚米に変質していく者達のようだ。

「米国に寄り添っていれば大丈夫」というのはまさしく「平和ボケのお花畑」である。

日本人の99.99%
・護憲左翼真理教
・親米保守真理教
・国際金融資本陰謀論真理教

「共同体や社会の円滑な営みの阻害」を極度に恐れるあまり「空気」や「雰囲気」を読むことばかりに注力していると、いつしか「言語は民族や国にとって大切な基盤」であることを忘れる。

そして、日本語はその時代の気紛れで変り続けても大丈夫という、謎の自信に酔ってしまう。これも「平和ボケのお花畑」なのだ。

「言葉は生き物」の論理プロセス

「言葉は生き物」なる観念が、なぜ「平和ボケのお花畑」なのかもう少し掘り下げてみよう。

「言葉は生き物」と信じて疑わない人は目先の安定しか見えていない。

この観念の論理プロセスはこんなところだろう。

「言葉は生き物」という観念の論理プロセス

1.自分達は語義や用法の変化を繰り返した後の時代に生きている
2.現代でも語義や用法が変化しているが何の不具合も起きていない
3.だからこれで良いんだ
4.寧ろ、変化を続けてきたからこそ素晴らしいのだ

現代と過去の日本が決定的に違う点

目先では安定しているように見えるのは私も同意する。しかし、現代と過去と決定的に違う点がいくつかある。

その中で最も違う点は「日本が属国状態にある」ことだ。

話を簡略化するために「過去」と大きく括ってしまったが、平安であろうが鎌倉であろうが江戸であろうが「日本が属国状態」だったことはない。

属国状態の現代日本に必要なのは「国としてまとまること」や「国の根幹を見つめ直すこと」である。

当然、言語の保守も含まれなければならない。

米国に隷属し、中露南北朝鮮から侵略を受けている状態にも関わらず、本当に「変化を続けてきたからこそ素晴らしい」と呑気な姿勢で良いのだろうか。私は全く思わない。

このままだと、その時代の気紛れでどうせ日本語は変り続けてしまうのだから、いっそのこと「英語化」に踏み切っても何ら抵抗がないと感じる人が増える事態もありうる。

言語もグローバル化してボーダレスになったほうが良いではないかといった具合に。その頃にはもう共同体の一員なのだという意識は消し飛んでいるだろう。

最大かつ最重要な共同体とは国、日本だ。「適応」なる行為には、日本の国民なのだという意識が消し飛ぶ恐れが含まれていることを忘れてはならない。

「共同体や社会の円滑な営みの阻害」を極端に避け「適応」を続けた結果「共同体意識を失う」とは皮肉なものだ。

言語は先人から預かった財産であり、それを子孫に託すために守ろうという意識すらないのだから。

極端な表現をするならば「言葉は生き物」なる「適応を重視した観念」が日本を消失させるということだ。

適応能力が何十年何百年経ったときに自分の首を絞める

(福田恆存曰く)近代化において日本ないし日本人はとかく欠点が出やすい状況におかれているんだと。

日本人は(状況適応という面で)変わらない。しかし、日本は変わってしまうかも知れない。

日本人の行動方針はその場の状況によってどんどん変わる。目先の利益を確保すること以外は何も考えていない。金儲けのことばかり考えている日本人はどんどんダメになる。

上記動画は日本の政治家の国防政策に関する話である。私の見解では政治家の国防政策にとどまらない。

・行動方針はその場の状況によってどんどん変わる
・目先の利益を確保すること以外は何も考えていない

これらは「言語に対する日本人全般の姿勢についても当てはまるのではないか」というのが私の考えだ。

そもそも国民の自覚があるのか否か

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
「適応」なる行為には、日本の国民なのだという意識が消し飛ぶ恐れが含まれていることを忘れてはならない。

このように先述したが二つの疑問が浮かび上がる。

一つ目は「国民の範囲」二つ目は「国民の自覚」。現代の日本人はこれらをどう捉えているのだろうか。

私が認識している「国民の範囲」とは形式上ではあるが「過去現在未来を包含した日本人」である。

しかし、残念なことに、現代を生きる日本人がそんな認識を保有しているとは到底思えない。

次に「国民の自覚」。

「国からの保護」を受けて「国への貢献」で返す。これが「国民の自覚」である。

「国への貢献」とは「国からの保護を維持する」ことも含まれており「自主独立を保ち続ける」ことに繋がっている。

「維持」「保ち続ける」というのは、あなたが死んだ後に生まれてくる、いわば未来の日本人を見据えてのことだが、これも怪しい。

では、せめて「国民の範囲」を現代に生きている日本人に限定し、その上で「国民の自覚」を持っているのだろうかと考えてみる。

あなたが生きている間だけでも「国への貢献」を意識できるのだろうか。やはり否である疑いが濃厚だ。

つまり「国民の範囲(過去現在未来を包含した日本人)」はおろか「国民の自覚」すら怪しいのである。

「日本人」という自覚と「国民」という自覚は必ずしも一致しない。現代の日本人にあるのは茫漠とした「選民意識」や「例外主義」だけではないだろうか。

日本人から無意識に「国民」という枠組みが取り払われ「日本人は素晴らしい」という謎の自信だけが残る。

国民の自覚すら構造改革され解体状態になっていると仮定すると、前項で述べた「その頃にはもう共同体の一員なのだという意識は消し飛んでいるだろう」という段階をショートカットしていることになる。

であるならば、予測よりも急速に日本は消し飛ぶ恐れがあるわけだ。

国は自分で守る 国民国家nationalstateのはじまり

危機意識がゼロに等しい日本人

「言葉は生き物」なる観念が日本を消失させるという意見は大袈裟だと思う人もいるだろう。確かに日本を消失させる直接原因になる確率は今のところ低い。

当座は経済政策や国防政策の失敗で一気にシナに占領され日本を消失する危険性のほうが高い。

しかし「適応」を続けても日本語は雲散霧消しないと誰が断言できるだろうか。

日本語を失っても、決して日本の国民であるという意識が失われないと誰が保障(保証)してくれるのだろうか。

皆、危機意識が低いのだ。つまりは平和ボケの産物「お花畑」ということだ。

言葉を変化させるという「適応」の継続が良習だとしても、現在、日本が置かれている状況にその良習を組み込むとどうなるか想像してみて欲しい。

日本は沈没すると私は思う。

別記事では「言葉は生き物」とは「言葉を半殺し」にすることに等しいという切り口で論を展開している。宜しければご覧頂きたい。

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褒め言葉として「クソ」「クッソ」を乱発する奴らを肥溜めに放り込んでやりたい言語の観点からすれば、そいつらは現代的でも進歩的でも寛容でも無い。不寛容で古臭いと呼ばれるべきなのは本来そいつらである。何故なら「大衆の気分で選んだ価値判断は失敗だらけだった」という例を現代人は沢山知るっているはずだからだ。もし、それを知らないならば情報化社会に生きている現代人とは言えないただのパッパラパーである。...

他にも同様のテーマで記事を投稿しているので、併せてご覧いただきたい。

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語求(ごきゅう)
「適切な言語感覚」を探求する者。「言葉の変化全肯定論者」の軽薄さと危険性を独自の視点で暴き出す。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人よ。あなたの言語感覚は間違っていない。そんな奴らに屈するな。国防に必要なのは核武装 と言語の保守だ。アイコンはユルいが50代の筋トレおじさん。