当ブログで繰り返し主張していることだが、私が「言葉の変化を警戒しろ」と強く訴えるのは「属国状態」にあるからだ。
歴史に詳しい人からすれば、属国状態を回避できた局面をいくつか挙げることができるはず。
だが、あえてその局面を取り払い、日本を眺めた場合を考えてみる。
そこから見えてくるものは「言葉の変化」のありかた。本当に「言葉の変化」を無批判に肯定して良いのか。「言葉の変化」を全肯定する人が多数を占める日本というのは好ましいのか。
私はもちろん好ましくないという意見を持っている。変化を良きものとできたのはひとえに「ラッキー」だったからだ。
先人たちの努力を踏みにじることを言うなと怒り狂う人には先に謝っておく。だが、日本以上の苦難と努力と試行錯誤を続けてきたであろう欧州各国でさえ独立や国体の安定を維持するのは困難であり、未だにギリギリの攻防を余儀なくされている。
日本は世界最古の国家だ。二千六百年以上続いている国は他にない。それを誇りに思うのは良い。
だが、そこから戦後の日本の不甲斐なさを直視せず
と選民意識や自尊心を肥大させる方向に感情が高まっていくのは非常に危険だ。
選民意識や自尊心の肥大は憲法九条を守れと叫んでいる空想的平和主義と何ら変わらない。
自虐史観は不要。しかし、自省史観は必要だ。自虐史観には真っ当な反省点がなく、思考停止して日本の今後から目を背けているだけである。
一方、自省史観は、日本の独立を取り戻すために真っ当な反省点を見極めることだ。そうすればこのようなことが見えてくるはずだ。
もし、日本が欧州やユーラシア大陸にあったら二千六百年以上存続できただろうか。よく考えてみられたい。恐らく五十年も続かなかったのではないだろうかと私は考える。
保守思想の始まりが欧州なのはギリギリの攻防から編み出された「知恵」なのだ。



日本は「ラッキー」故に「変化に対し無警戒」でいられた。その無警戒ぶりは、日本が一度戦争に負けただけで「あっさり」米国に屈従する様に現れているのではないか。
変化することが好ましいという観念は岩盤のごとく硬く厚い。そして、日本の国土を埋め尽くしている。
「雨垂れ石を穿つ」と言うが「変化するのが好ましい」とする岩盤を穿つのは、かなり難しいだろう。
日本人は、この問題から目を背けてきた。
しかし、そろそろ正面から向きわなければ、日本はますます脆弱化し、あっけなく国柄を失うことになりかねない。
当ブログを読んで、一人でも向き合ってくれる人がいることを願う。