今回の記事は「殆どの日本人は空想的平和主義のオメデタイお花畑民族である」という内容。
記事内に出てくる「言語が持つ三つの性質」は私が概念化したのだが、言語の成り行きをつぶさに見ていると誰にでもわかる簡単なものである。
堤防としての日本語
日本語は外国からの侵略を阻む「防壁」「堤防」だと考えている人がどれだけいるのだろうか。
これからは英語教育の強化が必要だのとほざく勢力がいる。その勢力はただのバカなのか、はたまた他国の工作員なのかは知らない。
ただ、これだけは言える。
「英語化とは日本完全植民地化計画」であると。
これを反対側から見れば「日本語は完全植民地化に対する堤防」と言える。
外国からの脅威。津波高波のように押し寄せる脅威から日本人の安全を守る「堤防」の役割を果たしているのが日本語なのだ。
それがイマイチわからない人は、言語を規格と捉えてみてほしい。規格が統一されれば交流や物流が楽になる。一見、良いことのように感じるが弊害も少なくない。
覇権欲の強い国が弱小国を食い物にできてしまうのが規格の統一。あけすけに言えば「植民地化」や「属国化」がやりやすくなるわけだ。規格の統一は侵略されるリスクがあることを忘れてはならない。
米国が中東諸国に「民主化」を押し付けたのも「規格の統一による属国化」を狙ったものである。成り立ちも慣習も食生活も気候風土も違う国に対して、規格を押し付けるのはどう考えても無理筋であるにも関わらず。
現在、日本は「外国語の案内表記」で溢れている。それを、外国人にも優しい日本と好意的に考えるのはオツムがパーだ。あれは侵略行為だと捉えるべき。
他国はありとあらゆる手で日本を意のままに操ろうとしている。日本大手企業のトップが外国人になったり、領空/領海侵犯したり、関税を下げろと要求してくるなど、比較的わかりやすい侵略だけではないのだ。
これでもピンとこない人は「TPP」を巡る騒動を思い出してみられたい。
堤防を自ら破壊する日本人
驚いたことに堤防を自ら壊すのが現日本人の実態。自覚の有無や程度の差こそあれ日本人全体が堤防破壊に加担している。脅威は即座に英語化を推進する勢力だけではないのだ。
現下「言葉は時代に応じて変えて構わない」と信じて疑わない人は堤防破壊者、あるいはその予備軍だと私は強く思う。日本はこれまでにないほど他国の脅威にさらされている。
そもそも日本は形だけの主権国家であり、未だに米国の占領下なのだ。故に「言葉は時代に応じて変える」という堤防破壊行為は占領状態を更に強固にする恐れがある。
「言葉は時代に応じて変えて構わない」というのを国防の立場から観れば「空想的平和主義」の色合いが濃い。
その理由は「言語が持つ三つの性質」を知れば容易に導き出せる。
言語が持つ三つの性質
では、その「言語が持つ三つの性質」とは何なのか。
性質1.他国に対する壁(重要度:極大)
性質2.国の基盤(重要度:大)
性質3.会話ツール(重要度:小)
この概念は私の知る限り、古今東西誰も明確に示した者はいない。だが、この概念を仄めかし裏付ける言説や出来事は多く見受けられるはずだ。具体例を挙げるまでもなく、よくよく観察すればあなたにもきっとそれがわかる。
この記事では三つの性質と表現してみたが「三層構造」のほうが把握しやすいかも知れない。
「性質1.他国に対する壁」と「性質2.国の基盤」はこれはひとまとめにもできるのだが敢えて分けてみた。重要度がそれぞれ「極大」「大」になっているが入れ替わることもあるだろう。
自主独立状態にない今の日本は「性質1.他国に対する壁」の重要度が「極大」なのは当然。
言葉の変化は「性質3.会話ツール」の領域において頻繁に行われる。
家庭、学校、会社などの日常会話が「性質3.会話ツール」の領域。「言葉を変えて構わない論者」と「言葉を変えるな論者」は、この「性質3.会話ツール」の領域で争っているのだ。その自覚を持たないまま。
「言葉を変えて構わない論者」がこのまま優勢で、勝手気ままに日本語が変化していくようならば、他国はますますコントロールしやすくなる。
「時代によって柔軟に言葉を変化させることこそ日本の強みだ」と主張するのは「空想的平和主義」と同質なのだ。
誤った学び
では「言葉の変化の実態」とは何かを考えてみよう。現代の表現を例にとる。
現代において「延々と」を「永遠と」と表現するのはおかしいと思うのがまともな人の素直な感覚。そして「永遠と」ではなく「延々と」ですよ、と情報提供してあげるのが好ましい姿勢。
情報提供された人が誤りに気付き「延々と」に修正することが理想だ。これは良例。
他方「時代に応じて言葉を変化させて構わない」という理屈を掲げる側は情報提供を野暮だ無粋だ場の空気を乱すと断じ「永遠と」と表現する人が増えれば、そちらを正とすべきなのだと論じる。誤りは訂正されることなく押し通されていく。
これは悪例。
この悪例こそ「言葉の変化」と呼ばれる実態のほぼ全てである。つまり、言葉の変化とは、概ね「誤認の放置」から起こる。
我々がこれらから学び目指すべきは「悪例を減らし良例を増やす」ことなのだ。
こんなくだらない悪例を「言語の本質は変化だ」と歓迎し野放しにしてきたことを、現代の我々はそろそろ本気で恥じなければならない。
学びを活かせない要因
しかし、不思議なことに「言葉を変えて構わない論者」は「悪例」こそ「良例」だと強弁する。間違いの蔓延すら「時代に合わせた適応」だと主張したいらしい。
「言葉を変えて構わない論」は「誤った学び」が根幹にある。だが「言葉を変えて構わない論者」は「悪例」を「良例」だと見誤っていることに気付かない。もしくは目をそらす。
これは由々しき問題である。
「時代に合わせた適応」だと主張したい気持もわからなくはない。実際「性質3.会話ツール」の領域では「悪例を減らし良例を増やす」という学びを活かすことが案外難しい。理由はこうだ。
・人情からすれば、少々の間違いは受け流すのが好ましいと思うから
・人間は変化そのものを求める向きがあるから
「時代に合わせた適応」とは、指摘するバツの悪さを回避し続けたことにより、間違いが蔓延するというのが実態。加えて、人間には変化を好む性向があるため容易にそちらに流れる。
学びを活かすことが案外難しいことについては、私も同意したいところだ。ただ、問題が二点ある。下記に示そう。
間違って言葉を用いている人は、受け流される度に訂正する機会を失う。その機会損失は間違って言葉を用いている人にとって本当に良いことなのか。私は良くないと思う。
だが「永遠と」ではなく「延々と」ですよ、と言うのは情報提供する側の勇気が試される。
何故ならば「恥をかいた」と相手に思われ恨みを買う恐れがあるからだ。また、その本人以外にも野暮だ無粋だ場の空気を乱すと思われるかもしれない。
見通しの甘いお人好しが日本を壊す
「性質3.会話ツール」の領域しか眼中にない人は「時代に合わせた適応」を曲解する。それは即ち「場の空気」と「多数派の気分」の優先。
そんな「見通しの甘いお人好し」が「性質1.他国に対する壁」と「性質2.国の基盤」を揺るがし「堤防」としての日本語を壊すのだ。
「時代に合わせた適応」を現在の状況で解釈するならば「悪例を減らし良例を増やす」ことに他ならない。つまり「変化をできるだけさせないこと」こそ「時代に合わせた適応」なのである。
属国状態の我が国が、日本語という「堤防」を更に壊したらどうなるか。もうおわかりだろう。
完全にどこかの準州か保護国か植民地になるだろう。分割統治も十分考えられる。準州に選挙権は与えられない。
見通しの甘いお人好しが日本を壊すのだ。御愁傷様。
西部邁
チェンジって変革ですよね。変革していればいずれ良いことが起こる。実は左翼の定義というのはそれだったんですね。
西部邁
新しい変化から新しい良きことが生まれるというふうに言ったのが丸山真男をはじめとする進歩的文化人。
富岡幸一郎
源氏物語を現代語に訳しても「もののあはれ」は感じられない。単なる恋愛物語としか読めない。
西部邁
「New Change」は何か良い事をもたらすはずだという漠たる…
中野剛志
変化を恐れるな。
西部邁
それがずっと続いているんですね。
中野剛志
何か変えることに興奮する。でも、世の中よく見てみると、どんどん悪くしているので、それを留めるって発想だってあるはずなんですよ。何でいつも適応のほうなのかと。
中野剛志
セリフ同じなんですよ。 「起爆剤!!」とか「突破口!!」とかですね。 お前起爆してやるっていう。
伊藤貫
日本人の行動方針はその場の状況によってどんどん変わる。目先の利益を確保すること以外は何も考えていない。金儲けのことばかり考えている日本人はどんどんダメになる。