今回の記事は非常に短い。さっそく本題に入ろう。
「保守せよ」vs「変化を認めよ」
「言葉をできるだけ保守せよ」と主張する私に対して「言葉は変化して構わない」と反発されることが多い。
ただ、ここで一つの疑問に突き当たる。
「言葉は変化して構わない」という文章を丁寧に読めば「変化する前の状態を知っている」ことが前提になる。
「原義」とまでは言わないまでも「以前の語義」を知っていなければ、変化を観測することはできない。
よって「変化して構わない」と言える人の条件は、以前の語義を知っていると規定できる。
ところが、大抵の場合は以前の語義を知らない。知らないからこそ誤った遣い方ができるとも言える。
つまり「言葉は変化して構わない」という意見の多くは矛盾を抱えているのだ。変化したことに気付ける術がないのだから。
変化容認側の解釈
では、実際どうなのか。
誤りを告げられたと同時に「原義」または「以前の語義」を知る。
この状態を変化容認側に立って解釈すれば、誤りを告げられた瞬間に前の語義を知るのだから、同時に変化を観測したことになる。
変化否定側の解釈
次に私側に立って解釈すれば、誤りに気付かぬまま遣っていた事実を否定できないので「言葉は変化して構わない」という反論は成立しない。
故にそれは詭弁であり見苦しい言い訳だ、と主張できる。
あなたはどちら側?
ざっとこんな感じだろうか。
実はこの問題は変化容認側のほうが有利である。答えはこうだ。
「全ての言葉を包括した場合」は「変化して構わない」と誰が主張しても矛盾しない。
言葉を限定したときのみ、前提条件が発生するのを逆手に取るのだ。
限定を外して言葉全体にすれば、日本語という大枠は知っているという前提に立てる。
やや強引だが、変化容認側の反論は矛盾を孕まなくなる。
あなたはどちら側を支持するのか。願わくば私側であってほしい。