竹中平蔵、売国奴のお前をいつか必ず殺してやる
竹中平蔵や堀江貴文など、多くの国民を苦しめた奴らがいる。間接的にせよ、奴らのせいで身近な命を奪われた人もいるだろう。
であるならば、今ものうのうと生きている奴らに対し募る殺意を叩きつける人が出てくるのも当然。
あまりにも非道なことには復讐せざるべからず
しかし、現代の日本において、下記の発言を表明することは犯罪行為とみなされる。
では、次の表現は犯罪か否か。あなたに考えてほしい。
あなたは「犯罪的発言ではない」と答えるだろう。あなただけではなく多数の日本人もそう答えるはずだ。
言葉の定義を増やし自由に解釈するための要件
つまり我々は、言語に対して下記の認識を許したことになる。
言葉の定義に絶対はなく固定されない
「竹中平蔵、売国奴のお前をいつか必ず殺してやる」と「必殺/必殺技」とでは、どうやら用いられた状況が違うから自ずと語義も区別され変わってしまうということらしい。
語義は状況に従う。よって、語義は増加や変化や拡張があって然るべきというわけだ。
確かに複数の定義を持つ言葉はある。しかし、その定義は近接しており、類推可能なのだ。
ところが「必殺」が用いられる状況から考えられる定義は「強力」である。私の言語感覚からすれば「必ず+殺す」と「強い+力」とはかなりかけ離れており、とても定義が近接しているとは思えない。
「必殺」は何かを強調したいときに用いる言葉として語義が拡張されたのである。
字面から見て慎重に扱うべき「必殺」という恐ろしい用語ですら一般化し、子供向けの媒体にも出てくるのだ。
当然ながら他の語義の扱いも自由。残酷であろうが下品であろうが「みんなが許せば」常用しても問題ないという理屈が成り立つ。
つまり、言葉の定義を増やし自由に解釈するためには要件があるのだ。既に書いているとおり「みんなが許せば」という部分である。もう少しかしこまった表現をすればこうだ。
「国民の倫理観や道徳観に照らして許せるか否か」が語義の自由度を左右する
必殺ダブルセーラーキック/必殺エクストラヴァージンオイル/必殺確殺シュート/必殺シャイニングフィンガー/癇癪持ちの最終必殺技灰皿ソニック/ルビィちゃんの必殺技ずら~/必殺技はあなただけのものじゃない/俺らしい必殺技/必殺の超絶ウルトラスーパーレイトブレーキング/必殺技の応酬/新必殺技って何ですか/編み出される必殺技/必殺!(以下略)/タイガーマスクの新必殺技/必殺技です/これぞ敵の目を欺く必殺の策、彼女だ/二体セットじゃなきゃ必殺技ができないよ/必殺、姉の威厳/必殺瓦投げ/必殺レッド・ファントーム/超必殺ゴウスパーク/必殺ぽぷらビーム/そのままゴッドガンダムの必殺技で押し切るのよ
どこで「殺」の定義を区別するのか。そして犯罪性を区別するのか。
それは「みんなが許せるか否か」に尽きる。「国民の倫理観や道徳観」は語義に反映されるのだ。
先述した「リベンジマッチ」「ゲリラライブ」「麻薬たまご」「飯テロ」なども、倫理観や道徳観のフルイにかけられ語義の拡大を許された言葉である。
みんなの選択は本当に信用できる?
「言葉の意味や用法の自由な解釈」を肯定するためには「国民の倫理観や道徳観」が重要になってくるのはわかった。
前項を見る限りみんなの選択は常に正しい。ところが、そこに「時間と範囲」という要素が加わると実際そうなっていない。
回りくどい書き方をしたが「時間と範囲」とは人類の歴史のことだ。
人類の歴史を振り返れば「みんなの選択は常に正しい」とはとても思えない。約二千五百年前のギリシアであろうが、近年の日本であろうが同じである。
いくつかの分野で例示しよう。
わかりやすい例として東京都の政治家を挙げておく。
東京都知事にふさわしい候補者が毎期選ばれていると自信をもって答えられる人がどれだけいるのだろうか。実際、ロクな人間が選ばれていない。
都議会にしても同じだ。セクハラヤジで大騒ぎした塩村文夏という都議は、紛うことなきゴミカス女だ。こんなゴミカス女が何故選ばれてしまったのか。塩村は後に参議院議員になっている。投票者はアホとしか言いようがない。
都政に限らず、政治の誤りは武漢肺炎ウイルス騒動や東日本大震災への対応を見れば明らか。
民主主義は建前上「みんなの意思の反映」なのに、いまや国民全体が貧困化へ突き進んでいる。「封建」と言われた江戸時代のほうが遥かに豊さがあるのはどうしてだろう。
共産党員の池内さおり議員と吉良よし子議員は安倍政権打倒!ブルドーザーデモにも2人仲良く参加し、「安倍晋三はさっさと辞めろ!」と書いて嬉しそうなお顔ですね。有権者の皆さんは、このように議員が自ら下品な活動を行う政党に
票を入れますか? pic.twitter.com/DYMn0THGnd— r_in165 (@r_in165) December 5, 2014
因みに「封建」とは共産主義用語である。
服飾の流行を一度は追いかけたことがある人ならわかるだろう。何であんな服を買いたくなったのだろう。流行なんてバカバカしい。今から思えば恥ずかしいと。
西部邁
もし多数派が正しいなら歴史はひたすらなる進歩でしょ。何万年も経っているんですよ人類出てから。
今頃もう人類はパラダイスに近づいているはずさ。ところが世間では文明の危機であると没落であると言われているわけ。
てことはね、多数派は概ね間違っていると。
多くの方に崇高で絶対で真っ当な判断があったら日本はとうの昔にもっと天国に近づいているはずですよ。ずっと多数決でやっているんですから。真理は概ね少数派に宿るもの。
国民の声から全体主義も軍国主義も生まれる
中野剛志
少数派の人が一所懸命何か言っている。特に日本はありがちですけれど、多数派というだけで少数派のことをバカにするわけですが
(略)
自分の立場を不利にしてでも訴えているというのは、何か見えているのではないかと思って耳を傾けみるというのが大事。
「言葉だけは別」という理屈は通らない
服飾、政治家、名付けなど「みんな」は選択を誤ってきた。ここであなたに問いたい。
あらゆる分野/領域で「みんな」は間違いを繰り返してきた。にも関わらず、何故言葉だけが「みんなの間違い」から逃れられていると思えるのか私には理解できない。
そもそも、ほぼ全ての事柄に言語は関わっている。言葉が無関係であるはずがない。「言葉だけは別」という理屈は通らないのだ。
西部邁
普段の言葉遣いは国家の存続に影響する
小浜逸郎
日本国憲法は日本語でなはい
伊藤貫
(ポストモダンは)価値も言葉の意味も「脱構築」できると言うんですよ。水島さんにとってのある言葉の意味が僕とは違うんだから、と。
客観的に共有できる価値基準が無いと堂々と言いだしたのが彼ら(ポストモダニスト)。そうするとコミュニケーションできないんですよ。
佐藤健志
言葉は文化の基礎です。
(略)
どうも最近の安倍政権の言葉を見ていると日本語として意味をなしていない。
文明の没落期には新技術への熱狂と新宗教への昂揚が流行する/言語は文化のコピー/戦後日本人がまともに言葉を遣っていない/日本人は言葉は巧みだが責任感が薄い/誰一人責任を持って考えていない/そんなに滅びたいならお任せします
男に見えますが私は女です
突然だがここでアメリカの話をしよう。
「自由主義」「個人主義」を掲げてきたアメリカの今は悲惨である。「性スペクトラム」とやらを主張するバカが増殖し、歯止めがきかない状態になっているからだ。
「私は女です」と言い張れば、どこからどう見ても男なのに女なのだそうな。「私は男です」と言い張れば、どこからどう見ても女なのに男なのだそうな。否定すれば差別なのだそうな。アホ丸出しである。
山口敬之
これ小坂先生言ったようにね、本当ただの男のくせに女子トイレに入りたい人が防げなくなってしまう。
アメリカで起きたのは、そのレイプの犯人がその裁判中に自分はトランス女性だと主張したんです。そして女性刑務所に行ってまたレイプしたんですよ。
「私は男に生まれてきたけど自認は女性でレズビアン」だって言ったんです。だから女でレズビアン、女性を愛するからただの普通なんですよ(という言い訳ができる)。これ、どんな男でも嘘がつけちゃう。
結局、自認の恐ろしさってこれで、それで自分がこうだと言ったらそれを認めなさい、それ以外は全部差別だとなってしまう。
そんなアホ丸出しの猿真似をしているのが近年の日本。「ブチ殺すという発言に殺意なんてないよぉん♪」という認識が当たり前になる日が来ないとも限らない。
害獣、堀江貴文が「死ね」と書いてもお咎めなし。春名風花という小賢しい女は「うしじまいい肉さんの死ねは良い死ね」とほざき、それに同意する輩も少なくなかった。
今の時代でもこの有様。
日本人に対する憎悪表現は許される
「ヘイトスピーチ」。この言葉を外国から仕入れた弊害も大きい。「ヘイトスピーチ=憎悪表現」は民族、人種、宗教などの混在が多い国で発生した概念語だ。
「差別だ」と喚き散らし暴れまわり日本を貶め、権利と金銭と地位を奪ってきた朝鮮人。更に奴らは「ヘイトスピーチ」という概念を日本にすり込み真っ当な批判を封じることに成功した。
日本は「ヘイトスピーチ反対」という猿真似をし、あっさりと「ヘイトスピーチ法」まで成立させた。朝鮮人を皮切りに外国人が大量に押し寄せるようになった日本はもはや世界第三位の移民大国である。
「ヘイトスピーチ法」の実態は外国人優遇。それは権利や金銭や地位だけに留まらない。教育や言論まで外国人の意向が通る世の中になりつつある。
なんせ日本人に「死ね」と言っても許されるのだから。これは韓国内の出来事ではない。日本で「日本人死ね」と言うのはヘイトスピーチではなく正当な意見だと認められるのだ。
「ヘイト豚は死ね」発言の弁解をする野間易通/「韓国人を殺せ」発言を自作自演した金展克
言葉は時代の気分で変化するという観念の落とし穴
実のところ、こういった表現は、やはり殺害予告にあたると私も思う。ただし、この記事を書いている時代においてである。
「みんなの選択の間違い」による影響や弊害は「間違いを選択した人が生きている時代」で起こるとは限らない。寧ろ何世代も後にジワジワくるものだ。
「言葉は時代の気分で変化させるべき」という観念が幅をきかせる理由。それは、自分の生きている時代に問題を体感することが難しいからだ。
これが「言葉は時代の気分で変化する」という観念の落とし穴。私からすれば明確に問題を体感できる。故にこんな記事を書いているのだ。
殺害予告が犯罪ではなくなる日
「必殺」「リベンジ(復讐)」「ゲリラ(小規模戦/奇襲/戦い)」「麻薬」「テロ(公に恐怖を抱かせる/不法な暴力行為)」
これらの語義が変化して一般的に用いられるなら、「殺害予告も犯罪ではなくなる日がくる」という論理が成り立つ。
あなたは言い切れるだろうか。これらの表現が犯罪行為だと言われない日なんて来ないと。
必殺やリベンジやゲリラやテロを用いているのに犯罪性なしと認識し放置するのなら、「ブチ殺すぞ」と書いた文書を送り付けても逮捕されない日がやってきてもおかしくはない。
かつて残酷だとされていた言葉が現代では常用されていることを肯定する。これが「言葉は時代の気分で変化させるべき」という論者の主張。
ならばその論者たちは「ブチ殺すぞ」という表現に犯罪性を感じなくなる日がくることを受け入れなければならない。殺害予告が犯罪ではなくなる日がくることを認めなければならない。
それが嫌なら「言葉は時代の気分で変化して当然」という観念に疑いを持つべきなのだ。今すぐに。
「写メ撮って」「飯テロ」「意外と」おかしな言葉だらけ
テロの定義
「意外と」は大嫌い。正確には「意外に」だ。
僕はまだ人を殺したことはありませんが人を殺せるように頑張ります
あいつ一匹でいいっつうなら、僕殺しにいきますよ
全員殺してくだちゃい♪
コロスゾ♪