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言語に関する考察

「保守派ではない」と表明する三橋貴明氏にあえて申し上げたい。言語も「保守」の対象に含めよ

三橋貴明氏が「財政破綻論・自己責任論を徹底的に潰せ![三橋TV第246回]」の動画内でこんな発言をしていた。

三橋貴明
三橋貴明
日常会話でやたら言葉の定義にこだわるやつ嫌でしょ。

この率直な感覚に大抵の人は納得できるだろう。日常会話においては言葉の定義よりも、話者が述べたい意見の全体像を掴むほうが肝要だと。

しかし私は、ここに合成の誤謬の落とし穴があると考えている。何故落とし穴があると考えているのか、あくまで仮説だが述べよう。

日本にとって貴重な存在

強調しておくが、今の日本にとって三橋氏の存在は大変貴重。彼の存在がどれだけ日本に益をなすか計り知れない。

対談している中野剛志氏も同様に日本にとって重要な存在だ。

「日常会話でやたら言葉の定義にこだわるやつ嫌でしょ」という観念から予想される合成の誤謬

「合成の誤謬(ごうせいのごびゅう)」とは個人にとって良くても、多数が同じことをすると悪い結果を生む現象。[例:多くの人がトイレットペーパーを買い占める/多くの人が買い控えを行い貯蓄する]

  1. 日本は長年、言葉の定義を後回し、あるいは粗末に扱う風潮が続いてきた。その風潮が、抽象的な雰囲気言葉に踊らされる国民を増やし、今の惨状として現れているのではないか。
  2. 属国状態や緊縮財政から脱却できないのは言語という国家基盤が不安定になっていることも要因ではないか。
  3. この要因の元を辿れば「日常会話でやたら言葉の定義にこだわるやつ嫌でしょ」という空気に行き着くのではないかと。
  4. つまり、国民全体が日常会話で定義に触れず、回避ばかりしていると言語がおかしくなりかねないということだ。そうなれば、まともに思考できなくなるのは必然。
三橋貴明
三橋貴明
日常会話でやたら言葉の定義にこだわるやつ嫌でしょ。

この感覚、観念は、属国状態や緊縮財政から脱却できないという合成の誤謬になりうる。これが私の仮説だ。

聡明な三橋氏が何故この仮説に至らないのか不思議でならない。

「空気を読む」ことは日本消失への道

三橋貴明
三橋貴明
日常会話でやたら言葉の定義にこだわるやつ嫌でしょ。

この観念は「適応」や「空気を読む」風潮を強固にする。「適応」や「空気を読む」ことに関しては別記事で持論を述べているので引用しよう。

kotoba-heiwaboke
「言葉は生き物」という観念は平和ボケの産物である日本語の「適応」を続けてきたのは良い風習、「良習」と捉えることができる。「適応」を「現実主義」「プラグマティズム」と認識している人も少なくないだろう。ただ言語に対して「適応」「現実主義」「プラグマティズム」を突き詰めるとどうなるか。何十世代後か何百年後かはわからないが、形だけで中身はスッカラカンな日本語らしき何かになる...

【適応という「良習」の先に待っている日本消失】

共同体や社会の円滑な営みは大切だ。そのために「その時代に生きる人の使い勝手で変えて構わない」という「適応」は致し方ないかも知れない。

「適応」とは「空気を読む」ことであり、空気は雰囲気と言い換えられる。雰囲気とはその場の状況。雰囲気を把握し合わせていくというのは高度な能力だ。

「空気を読む」「雰囲気を把握し合わせていく」

これらは高度な能力による知性のある振る舞いであることは疑う余地がない。日本語の「適応」を続けてきたのは良い風習、「良習」と捉えることができる。

「適応」を「現実主義」「プラグマティズム」と認識している人も少なくないだろう。

ただ、言語に対して「適応」「現実主義」「プラグマティズム」を突き詰めるとどうなるか。何十世代後か何百年後かはわからないが、形だけで中身はスッカラカンな日本語らしき何かになる。

そうなれば、もはや言語を失ったも同然。「適応」の名のもとに言語を蔑ろにした当然の結果である。

「プラグマティズム」は「プラクティカリズム(実際主義)」に変質しやすい。「プラクティカリズム」は「場当たり主義」と私は解釈している。

プラグマティズムとプラクティカリズム

言葉の定義の厳格さを別けるな

そもそも日常会話と経済の解説で「言葉の定義の厳格さを別ける」というのはおかしい。

何故なら、いかなる領域の話であっても、必ず普段の言語感覚が反映されるからだ。実際、三橋氏は討論や経済の話のなかで「まぎゃく」「見える化」というふざけた言葉を用いているではないか。

「真逆」は「まさか」である。「真逆そんなことが」と用いるのだ。それを「まぎゃく」と発し、反対の意味として用いるのは明らかに定義を間違えている。

そもそも日本語に「まぎゃく」なんて言葉は存在しない。新語として用いる必要もない。

■真逆が嫌い
http://alcom.alc.co.jp/users/660/diary/show/124470

もうずいぶん前から気になっていたんですけど。「真逆(まぎゃく)」って言葉をテレビなんかで聞くようになって久しいと思いませんか?

まずはその音が好きになれず。「まぎゃく」っていう音が。なんか下品というか、みっともないというか。

「正反対」とか「対極にある」とか、その意味を表す言葉は以前からあるし、べつになじみが薄いような言葉でもないと思うのだけど、なんでわざわざ「まぎゃく」なんていう美しくない言葉を選ぶのでしょう?

■「真逆」…正反対と言って欲しいです。いつから正しい?日本語として定着してしまったのでしょうか…。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1263034707

xmdyr183さん
未だ正しい日本語にはなっていません。今後もならないでしょう。「まぎゃく」なんて語感の悪い湯桶読みをする人の神経を疑ってしまいます。「真逆様」と書くて「まっさかさま」と読む以外には使われていないと思います。

テレビの影響が大きいと思う
ユーザーID:0854993280
みい 2011年6月18日 23:43

最近、テレビニュースで聞いた言葉に『見える化』というのもありました。単に「『可視化』で良いじゃない?、「化」にくっつけるのなら『見える』じゃなくて『可視』でしょうに」と思いました。(『すぐやる課』がハシリなんでしょうか・・・・)

『万人にわかりやすくしてやったんだよ、文句あるの?』って言われそうです。

言葉ばっかり簡単にわかりやすくして、実は曖昧になり、正確に中身を把握するのが難しくなっているような気がします。せっかく漢字を組み合わせ一目でパッとわかるような熟語をたくさん作り出してきたのに、なんだか逆行しているようです。

三橋氏は「普通に」の用い方も怪しいことが多い。私の言語感覚からすれば「普通に中国の属国になる」「普通に倒産する」「普通に滅びます、日本は」などの表現は許しがたい。故にこのような表現を絶対用いることはない。本来はこの言語感覚こそ真っ当なのだ。

「ぶっちゃけ」も頻用するし「じゃね?」という表現を何のためらいもなく遣う。

三橋氏はおかしな言葉を刷り込まれていることに気付いていない。その状態で、経済関連だけ語義に狂いが生じないよう厳格にするというのはいささか滑稽に映る。

日常会話こそ言葉選びが重要であるにも関わらず、それを一致させるための情報提供や共有を拒むのは、言語破壊に繋がり、最悪の場合思考低下を引き起こす。

日常会話に油断があるから、いくら論理が素晴らしくとも軽薄な語り口が目立つのだ。そんな三橋氏を、どうしても全面的に支持できない。

普段の言葉遣いは国家の存続に影響する

親が言葉を変えれば子供の将来が変わる/日本語教育が薄っぺらだから英語化でも良いということになる



国を大切に思うなら言葉選びや定義について指摘される状況を考察せよ

三橋氏はこう述べている。

三橋貴明
三橋貴明
保守派と名乗ったことは一度もないし、名乗る気もない。

実は私も似たようなところがある。保守派だと胸を張って言えない。故に三橋氏の発言に半分は同意できる。

だが、三橋氏から漂うこの「言葉の軽さ」は何だろうか。

ここで保守の柱を考えてみよう。保守の柱とは「懐疑」「漸進」。もう少し具体的に表すなら「人間・土地・環境・未来」を護ること。

国のことを大切に思うと、自ずと多くの分野で「保ち守る」ことに重きをおくようになる。個人レベルにおいても「保ち守る」ことに重きをおく。PCにしても経営にしても趣味にしても。

保守というのは人が行き着く当然の振る舞いなのだ。

スマートフォンの安定は個人的保守/言語の安定は国家的保守「個人的保守」と「国家的保守」の両方を持っている人もいれば、そうでない人もいる。核武装と原発再稼働に反対する人は、これらを「個人的保守」の視点から論じている。「何となく怖い」「軍事国家になるみたいで嫌」「だから今のままが良い」といった近視眼的かつ情緒的な側面から価値判断をしているのだ。...
【人類七教訓】携えるべきものはスマートフォンにあらずこの教訓を今の日本人が腑に落としたなら、具体的に何を成すべきかが見えてくるはずだ。それは「戦争させない!」「平和憲法を守れ!」と叫ぶことでもなく「憲法は変えるべきだろ!」と反論するとでもなく「日本は素晴らしい!」と全肯定することでもない。今の日本人がスマートフォンの前に携えるべきはこの七教訓であり、心の中で繰り返すことだ。...

無論、三橋氏の活動は保守と言って差し支えない。にも関わらず保守派だと表明しないのは卑怯に映る。

三橋氏に申し上げたい。あなたが保守派と名乗らずとも国のことを大切に思うなら、何故言葉選びや定義について指摘される状況が起こるのかを考察せよ。日常会話のレベルにおいてである。

私なら、どうして言葉選びや定義について指摘される状況が起こるのかをこう考える。原因は二つ。

1.何度もおかしな言葉選びをしている
2.おかしな言葉選びをさせる背景が視える

「言語は国家の思想的基盤」だという認識を前提にした場合、私は指摘する側に共感を抱く。ただし、指摘する側であっても、恐らくこの前提を自覚している人はいないだろう。私以外は。

たとえそんな自覚がなかったとしても、日本語に対する漠然とした危機意識に突き動かされているように感じられる。私は思う。「✕✕」より「〇〇」のほうが好ましいよという声は保守思想の一端だと。

三橋氏は二つ共該当すると思われるが【2.おかしな言葉選びをさせる背景が視える】のほうがやや強いだろう。

上記の「背景」とは、接している言語空間のことだ。

例えば、軽薄な言葉が飛び交う空間に積極性をもって接していれば「り(了解の略)」「エモい」「とりま」「草」などが刷り込まれる。

やっかいなのは言葉は意識の有無を問わず入り込んでくること。街頭広告、テレビ番組、雑誌、ウェブサイトなどから、嫌でもおかしな表現を浴びてしまう。

一見、まともに感じられるニュースですらおかしな表現が潜んでいる。「される」という言葉を省いているのに助詞を変更しない表現はその典型。(殺人犯が逮捕/新製品が発表)

自分が知らない間に変な表現を埋め込まれる事態も大いにありうる。そんな事態から逃れ、国家の思想的基盤を保守する方法は、互いに指摘(情報提供)し合うことくらいしかない。

言葉選びや定義について指摘するのは意義があるのだ。意義を要約しよう。

言葉選びや定義について指摘する意義

・指摘とは思想的基盤を保守するために必要な点検作業

・指摘とは即ち、好ましい言葉選びの一致を目指すための情報提供

・好ましい言葉選びの一致とは情報共有を意味する

・情報共有=思想的基盤の保守

三橋氏は喫緊の問題である経済に注力するあまり、日常会話レベルで言葉選びや定義を互いに指摘(情報提供)し合う意義を見落としたが故に

三橋貴明
三橋貴明
日常会話でやたら言葉の定義にこだわるやつ嫌でしょ。

と、つい口を滑らしてしまったのだろう。

言葉の定義の重要性を力説する三橋貴明氏|一方で「まぎゃく」や「普通に属国」などおかしな口癖が多い

言語も保守の対象に含めよ

三橋氏よ「言葉の定義にうるさい」と「強調」するなら、日常会話こそ大切だと知れ。

そして、言語も保守の対象に含めよ。

「自分は保守派ではない」と逃げるな。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
おまけ。口癖がそっくりな二人。

語尾を繰り返す三橋貴明です、三橋貴明です。

語尾を繰り返す白亜・バーサーカー・ブレードフィールドですよ、ですよ。

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語求(ごきゅう)
「適切な言語感覚」を探求する者。「言葉の変化全肯定論者」の軽薄さと危険性を独自の視点で暴き出す。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人よ。あなたの言語感覚は間違っていない。そんな奴らに屈するな。国防に必要なのは核武装 と言語の保守だ。アイコンはユルいが50代の筋トレおじさん。
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