民主主義は最良の制度であるという不可解な教義
「ザイム真理教」なる言葉が徐々に拡がっている。それは非常に喜ばしいことだ。この点においては森永卓郎氏に「ありがとうございます」とお礼を申し上げたい。
ただし、私はこうも申し上げたい。「ザイム真理教」は派生宗教でしかないと。何故なら、民主主義そのものが宗教だからだ。
派生宗教はカルト化するのが常。「民主主義」という宗教から派生した「ザイム真理教」はまさしくカルトである。
仏教の原典を収集し、翻訳と実践を行っていると主張していた「オウム真理教」も結局のところカルト化した。「統一教会」や「創価学会」や「幸福の科学」も同類。
民主主義の基盤は啓蒙思想にあり
民衆政治を民主主義という宗教に仕立て上げたのは啓蒙思想。これが私の見解だ。
啓蒙思想とは何か。人間は必ず理性的に考え行動するという思想。理性至上思想である。
この思想は「社会契約論」に繋がる。
自由・平等・博愛/友愛・(合理)はまさに啓蒙思想=理性至上思想=社会契約論と言えるだろう。
もし、啓蒙思想が正しければこんな国ができる。
自由・平等・博愛/友愛・(合理)は誰もが納得する理想的な思想
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啓蒙により国民は必ず自由・平等・博愛/友愛・(合理)を獲得する
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だから国民の声の反映は必ず良い結果を導く
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民主主義は国民の声の反映だから最良の制度
↓
民主主義を行使すれば優れた政治家が現れる
↓
優れた政治家は国民の意見を余す所なく速やかに法律化する
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それを繰り返すたびに国民が豊かで安全に生きられるようになっていく
実際はどうだったか。政府や政治家への不満をぶつける声が増えただけ。
「民衆政治」という表現にはかろうじて「民がいつも理性的だなんて嘘話だよね」という謙虚さが残っている。
かといって輸入元の欧州、とりわけ英国の「デモクラシー」が「民衆政治」ではなくなっているため、そもそもが「最良の制度であるという不可解な教義」だったと論じるほうが素直だろう。
「社会契約論」と「国家有機体論」
「理性」=「分析」「分割」「数値」
民主主義は古代ギリシアにもあったが
「民主主義」の形態をよくよく見てもらいたい。そうすると「民主主義=社会契約論」という捉え方も可能になってくる。
多数の意見の反映は、古代ギリシアにもあったので啓蒙思想から生み出された制度ではない。
ソクラテスの処刑やペロポネソス戦争はまさに多数の声が反映された「民主主義」と言えるだろう。ただ、啓蒙思想や社会契約論にはこんな驕りがあるのではないかと勘ぐりたくなる。
我々は古代ギリシアの奴らと違うんだ
個々に自立し理性を獲得したのだ
民衆政治を民主主義という宗教に仕立て上げたのがこれらの驕りだとすれば、過去から何も学んでいないことになる。
啓蒙思想と共産思想はお友達
啓蒙思想といえばフランス革命を思い出す人も多いだろう。あなたもご存知の通り、フランス革命の実態は悲惨だった。王族より劣悪な輩に権力が移り、民は苦しんだ。
フランス革命に象徴される啓蒙思想と、権力者への不信を抱くあまり「反体制運動が主題=文化マルクス主義」に成り果てた共産思想とどこが違うのか。
マスコミ関係者がよく口にする言葉がある。
財務省の行動原理も同様。
これがザイム真理教の基本思想。
インボイス制度反対運動に見る民主主義の限界
権力を監視/制御するために投票権を行使し政治家を選び続けた現在の国民は幸せを感じているのか。むしろ逆行していると言わざるをえない。
一見して理想的な仕組みは、夢想だったということに気付くべきである。
権力を監視/制御しなければならないという意識は単純な反政府思想に向かいやすい。反体制運動が常態化しているのはこのためだ。
インボイス制度反対運動に参加している顔ぶれを見てもらいたい。「あの福島みずほ」までもが参加している。
私もインボイス制度反対運動に参加している一人だが、普段は対立し罵り合っている個人や組織が一同に会していることを目の当たりにしてこんな思いを抱いた。
民主主義に埋め込まれた三つの爆弾
「民主主義は最良の制度であるという教義」を無意識に植え付けられた結果、酷い事態に陥っていると論じてきた。ここからは、前項までの私論にもう一つの要素を加えてまとめていきたい。
題して「民主主義に埋め込まれた三つの爆弾」。
1.啓蒙思想(理性至上思想)
2.共産思想(権力の監視/制御=文化マルクス主義)
3.自己責任論(政治や境遇に責任転嫁するな)
あなたは意識したことがあるだろうか。民主主義には「自己責任論」が内在していることを。
「自己責任論」は心構えとして決して悪くない。それどころか好ましい面すらある。「清貧」も同様に大切な心構えだ。
自己責任論は功利主義と親和性が高い
「自己責任論」が成り立つ状態を考えてみよう。それは下記のような状態である。
国民の大半が中流家庭の状態
国民の大半が中流家庭の状態というのは実は「規制」が多かった。その「規制」こそ他国からの防壁になり日本人を守っていたのだ。
ところが「自由を規制で縛っているから経済が発展しないんだ」と叫ぶ人の影響力が増し「規制緩和」が進められた。
「規制緩和」は人を功利主義に駆り立てる。功利主義とはすなわち「利益の最大化」。功利主義による「利益の最大化」を目指すと次の状態に陥る。
過酷な競争
大企業や狡猾な人間への利益集中
株主重視の経営
大量の資金投入による権力掌握(政界/マスコミ)
規制緩和が大いなる失策であることは誰の目にも明らか。「インボイス制度反対運動」が起きるほどに貧困化が進んでいる。
「利益の最大化」を煽っているのが竹中平蔵大先生や堀江貴文尊師。竹中平蔵大先生や堀江貴文尊師は「自己責任論」を悪用し、こうまくしたてる。
社会が「自己責任論」の限界を遥かに超えているにも関わらず、こんなことを言えてしまうから驚きだ。
お前たちが投票で選んだ人間が作った法律や制度だから、あとは「自助努力」でなんとかしろ
結婚できないのも月給が安いのも全て「自己責任」だ
不満をぶつける前に死ぬ気で努力しろ
今の政府の姿勢
国は国民助けないからな!
自己責任で努力する人は助けるけれど俺が努力してないって認めたやつは助けないからね。お金持ちになってる人は努力してると認めてやる。
お金持ちになってないやつは努力が足りないだろ。だから自己責任でなんとかしろよ。
国が国民に対して何ができるかということを完全に放棄している。
緊縮財政と自己責任論 竹中ビジネスに貢献し続けた日本国民[三橋TV第240回]三橋貴明・高家望愛
国立大学生「デフレのせいにするな!」三橋貴明はどう答える?
民主主義は自壊的な傾向を内包している
民主主義という思想による政治制度。これは民意が反映されるほど壊れやすい。その理由を解説しよう。
前提として民意とは何かを羅列する。例えば民意とはこんなものだ。
まだまだ民意はあるがキリがないのでこの位にしておく。
乱暴に民意を言い表すとするならばこうなるだろう。
これらの民意から導き出される好ましい政策とは何か。
だが、民意はその時々で変わる。つまるところ、猛暑と極寒のどちらかしか関心がない。
政府や選挙の立候補者が「皆様が猛暑と極寒をできる限りしのげるように頑張ります」と永続的かつ包括的な提案を掲げたところで民衆は支持しない。
政府や立候補者は仕方なく「猛暑か極寒どちらに対策するかの選択」を迫られる。
その選択に従い政策が実行される。
「猛暑と極寒」の話は民意の乱暴な例えなので現実味がないのは認めよう。
では、現実的に民意の反映がどのように民主主義を壊していくのか。最重要と言える一つの要因を挙げよう。
権力を握り行使する
私欲に溺れた大金持ちが民意が悪用される
大金持ちの利益のために政策に関わり実行される
今を生きている大金持ちばかりが得をする人間が民意を発する機会が奪われ民主主義は自壊に向かう
やがて「猛暑と極寒」の例になぞらえて言えばこうなる。
常春の場所を作る
私欲に溺れた大金持ちは過ごしやすい常春の場所を守らせ特権を得る
政府に関与して利用できるのは大金持ちだけ
常春の場所を死ぬほど努力しろという仕組みができる
利用したければ死ぬほど知恵を絞って金儲けしろという風潮が定着する
利用したければ理不尽で熾烈なイス取りゲームに勝利するのが正義という世の中になる
「猛暑と極寒」両方の苦しみに晒される
ゲームに敗北した多数の国民は本来の好ましい政策とは「どんな立場や職業でも専念していれば、死ぬまでそこそこ満ち足りた暮らしができる」ように計らうこと。
東京で保育所に預けることなく自宅でしっかり子育てできる環境
新潟で産まれ、学生生活を送り、上京することなく就職や結婚をし、産まれた土地で家族の墓に入ることができる環境
定年退職後に石川で農業を営み、週に一度、東京の本社で講習ができる環境
民主主義を正常化させる手立て
こう言ったところで現実は民主主義を続けるしかない。これからも続いていくだろう。ならばどうすべきか。
この教義を疑うことから始めるしかない。
故・西部邁氏はことあるごとにこう述べてきた。伊藤貫氏も民主主義に疑いの目を向けている。このような視点を持っている人は極少数しかいない。
国民が「民主主義は最良の制度である」という前提から世の中を眺め、政治家を選び政策を批判しても、結局は悪循環にはまるだけだ。
プラトンが墓の中から出てきたらこう言うだろう。
民主主義を正常化させる具体例
西部邁
もし多数派が正しいなら歴史はひたすらなる進歩でしょ。何万年も経っているんですよ人類出てから。
今頃もう人類はパラダイスに近づいているはずさ。ところが世間では文明の危機であると没落であると言われているわけ。
てことはね、多数派は概ね間違っていると。
多くの方に崇高で絶対で真っ当な判断があったら日本はとうの昔にもっと天国に近づいているはずですよ。ずっと多数決でやっているんですから。真理は概ね少数派に宿るもの。
国民の声から全体主義も軍国主義も生まれる
伊藤貫
自由主義・民主主義・平等主義というアメリカ人が大好きな啓蒙思想。これ自身が正しかったのかどうか、ということも我々は議論に乗せるべきだと思います。
自由主義・民主主義・平等主義というのは18世紀後半の啓蒙主義時代にできた思想なんですけども、自由主義・民主主義・平等主義を世界中に広めれば世界は平和になると、世界の人権(意識)も向上するという思想は普遍性はないと思うんですね。
それどころか民主主義・自由主義・平等主義を常にいかなる政治問題においても適用するのは賢いとは思わないわけです。
民主主義に対する批判
議論の具体例
議論と言われてもピンとこない人もいるだろう。では具体例を示す。
さらに具体的な例を挙げよう。まずは団体間での具体例。
次に団体と政治家の具体例。
優先順位は二つの側面から検討するのが好ましい。
永続的かつ包括的な国家運営
中短期的な政策
この二つの側面のズレをできるだけ少なくするために議論が必要。
各団体を構成しているのは我々「民衆」だ。
ただ、民衆が個人的な情緒を好き勝手に政府へと投げかけても、国の永続性を損なうのは当然。
「民衆」が所属している分野の中で議論を重ねる。そして、総意を決める。
その総意を他分野の団体や政治家に訴える。これらを経て漸く政策の方向性が定まっていく。
これが民主主義を正常化させる具体例である。