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重言

【重言】「感」を多用する人ほど「感受性」が鈍い|「~感を感じる」という重言に何ら抵抗がないヘボライターは猛省せよ

私が最も不快な重言はこの「~感を感じる」である。
当然、上記に類する「感じる~感」という表現も嫌いだ。
接尾辞のように用いられる「感」も気持ち悪くて仕方ない。

正誤ではなくセンスの領域

「~感を感じる」

この表現についてあなたはどう捉えるだろうか。

何とも思わない
正しいとは断言できないが間違いではない

私はこう捉える。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
適切ではない
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
稚拙かつ無粋な表現

世間には「~感を感じる」と表現することを肯定するマヌケがいる。そのマヌケ共の論拠とは下記のようなものだ。

間違いではないので表現として許される
「違和感」は名詞だから「感じる」と繋げても間違いにはならない

確かに間違いではない。間違いというのは例えば「こんにちわ」「足元をすくわれる」「耳ざわりが良い」「永遠と」「考え深い」などである。「難易度」という言葉もあからさまな間違いだ。これらは正誤の領域の話。

他方、重言は正誤ではなく一段上の「センス」や「感性」の領域である。間違いではないものの「稚拙/無粋/くどい」といった印象を抱かせる。それがセンスの領域。

「~感」は「~」を感じている状態。~を感じている状態なのにそれを感じるというのは気持ち悪い。「気持ち悪い」この部分が「センス」である。

重言は正誤ではなくセンスの領域で語るべきものなのだ。それをどうしたわけか「間違いではない」と押し通す奴らがいる。そんな奴らは「ナンセンス」そのものだ。

センスの話は別の記事でも述べた。

言語表現で大切なのは正誤よりもセンスである習うより慣れろという訓は、まさにプラグマティズム、実践の中にあるのだからそれで話は終わり、とするのが、あるべき大人の態度なのかも知れない。それでも私は拭い去れない。「習うより慣れろだけで良いのだろうか」と。...

傲慢クルクルパー長谷川豊

「間違いではない」ならまだかわいい。驚くべきことに「用いて何が悪い」と言わんばかりに正しさを強弁するウルトラクルクルパーまでいる。

数年前だろうか「~感を感じる」という重言を強く肯定する記事を目にしたのだ。投稿者は長谷川豊という男で、確か「違和感を感じるは正しい!」というタイトルだったと思う。

感嘆符まで用いたタイトルに「えらく傲慢さが滲み出たカス野郎だな」という印象を持ったことを覚えている。

長谷川は元アナウンサーらしいが、センサーのトチ狂った「無神経なクズ」が恥じらいもなく堂々と世間に毒素を撒き散らしていることに激しい怒りがこみ上げた。

なんでもかんでも「~感」

「~感を感じる」という重言を殊更不快にさせる原因がある。それは「感」の多用だ。


 

どのように多用されているかを四つに分類してみた。

1.単語用法

こなれ感
抜け感
透け感
ツヤ感
丈感

不快でありながらも、かろうじて表現としての必要性が認められるものを「単語用法」に分類した。

「一体感」や「劣等感」のように「感」を省くと成り立たない表現は「単語用法」に属する。

だが、上記のような表現を野放しにしたせいで、何にでも「~感」で済ませる風潮ができたのではなかろうか。二つ目の分類ご覧いただきたい。

2.接尾辞用法

紙袋感
手ぶら感
日曜日感
品質感
表面感
ゆとり感
檸檬感
色感
手触り感

ざっとネット上を見ただけでこの有様。「手触り感」は「手触り」で伝わるだろうし「色感」も「色味」で事足りる。とりあえず末尾に「感」を付けておけと言わんばかりの雑さ。

よく目にする「生地感」なる表現も非常に気持ち悪い。「素材感」のほうがはるかに好ましいと思わないのだろうか。

3.体言止め的用法

更に酷いのは三つ目の分類。

この人の発言にちょっと違和感
今日は朝から倦怠感

これは女性に多い。何故か「~感」で終わらせてしまう。

「この人の発言にちょっと違和感がある」と書くほうが表現としては素直だ。

因みに「体言止め」と呼ぶのは本来、短歌や俳句の領域に限定されるらしいのだが、他に表す術がないので用いている。

4.文末用法

四つ目は「文末用法」。

なに、そんなに「私は全く関わっていないので追求しないで欲しい感」出しているの?
あれで、ありあに不器用系いじらしキャラが伝わった感あるよね~

体言止め用法に近似しているので三と四のはまとめて分類すべきか迷ったが、若干違うので分けた。

体言止め的用法は「一言の最後に付け足す」イメージ。こちらの文末用法は文章に「感」を付け足した状態である。

正確には文末ではないものの、一節の末尾を「感」にしてるためこのような分類名にした。大枠では全ての分類が接尾辞用法と言うこともできる。

いかに「~感」で済ませる風潮が強いのかご理解いただけただろうか。

感感感感鬱陶しいわ!

前項では、いかに「感」という字が多用されているかを示した。

当記事に貼った画像を見ればわかる通り「~感」を刷り込んだのは服飾業界だろう。あの業界は今でもやたらめったら「感感感感」とやっている。

「~感」の異常繁殖に拒絶反応が出るのも当然ではなかろうか。「服のセンスより言語センスを磨けよ」と言いたくもなる。

ましてや「~感を感じる」ともなれば、多用している奴らにこう怒鳴りつけたくなるのは何ら異常ではない。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
お前らどれだけ感じれば気が済むんだよ!
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
感感感感鬱陶しいわ!

重言のなかでもとりわけ「~感を感じる」や「感じる~感」といった表現は、無粋で頭が悪そうな印象を強烈に与える。

こんな気味の悪い重言に対して何ら反応しないなら、そいつの頭は日本人としてどこかおかしいのではないかとさえ思えてくるのだ。

そんなことくらいで心狭いやつだな

では尋ねよう。毎日クチャクチャ音を立てながら食事している人間が目の前にいたとしたらあなたは平気でいられるだろうか。

あるいは、接客業なのにツバを飛ばすように話したり、鼻毛を出していることを気にもとめないのは如何なものだろうか。

不快指数は頻度によって簡単に上がる。どいつもこいつも「感感感感」と書いていれば不快指数が上がるのは当たり前。

「嫌なら見るな」という陳腐な対処法は通用しない。

それほど世の中は「感」に溢れている。目障りにならないほうがおかしいのだ。

「感」という字に晒されるほど「鈍感」になる

「感」の多用や「~感を感じる」という重言が容易く受け入れられる。

実に不思議である。世に溢れるほど不快度が増し拒絶反応が出てもおかしくないはずだが、そうはなっていない。

「感」の多用は、新鮮、または妥協できる表現として認知されているということなのだろうか。

「みっともない重言」という「コモンセンス/常識」が失われ不快にならないどころか、妥当な定型表現とされる風潮すらある。

この風潮を端的に言えば「鈍化現象」だ。

「感」という字を多用する世の中になればなるほど言語に対するセンサーが「鈍感」になる。

皮肉にも「感」受性の欠如した鈍い人間こそ、巷に溢れる「感」という字に無頓着でいられるのだ。

当然「~感を感じる」や「感じる~感」といった表現が重言であることにすら気付かない。「鈍化現象」と先述したが、もっと乱暴に言えば「校正センサーがアホになっている」のだ。

ライターと世間の悪循環

脚本家や記者などのいわゆる「ライター」までが平気で「~感を感じる」と書いているのを見るに「鈍化現象」「校正センサーの鈍化」はかなり進んでいる。

「ライター」ですらこんなみっともない重言を平気で用いるとは、かなり悲惨な状況だ。

悲惨な状況の要素を整理してみよう。次の三つが浮かび上がる。

悲惨な状況の要素

1.ライターの言語センスが鈍っている
2.世間のセンスに合わせている
3.言語センスの鈍い人間がライターになる

1.ライターの言語センスが鈍っている

ライター自身が世間の風潮に晒されることで、言語センスが狂ってしまうというもの。ある程度仕方ないかも知れないが「モノカキ」として好ましいとは思えない。

2.世間のセンスに合わせている

世間の言語センスが「~感を感じる」という重言を受け入れていると判断して用いている。いずれにせよ「モノカキ」が素人に影響されている状況。

3.言語センスの鈍い人間がライターになる

そもそも言語センスが鈍いまま記事や脚本を書くようになった人間もいるだろう。「~感」が乱用される世の中で「~感を感じる」という表現が重言であることに気付かないような人間がそれにあたる。

これらは悪循環を呼ぶ。

「モノカキ」が素人に影響される
↓↑
素人が「モノカキ」に影響される

モノカキと素人、どちらが先かはわからないが、無粋極まりない重言が蔓延する悪しき循環は、世間の校正センサーを「鈍化」させ感受性を乏しくさせていることに変わりはない。

バカなモノカキは世間の言葉にフルイをかけない。世間の言葉にフルイをかけないモノカキはバカになる。

「感」そのものが不要

そもそも「感」という字そのものが不要な場合がある。具体例を示そう。

違和がある

違和がある
違和は「感」とセットで「違和感」と表現しなければいけないんじゃないの?

そう思われたあなたは、世間からかなり刷り込まれてセンスが麻痺している。「違和」だけで用いることは可能だ。寧ろそのほうが簡潔で好ましい。

違和がある/違和を覚える

もちろん「違和を感じる」と表現しても構わない。

どこかの個人ブログで「違和を感じる」というのはおかしいと主張しているバカがいた。

「違和」には必ず「感」を付すべき、という刷り込みにより、まさに「感覚」を麻痺させられているのだろう。それほど「~感」の侵食は凄まじい。

「違和がある」で済むところをヘボライターはどう書くか。もうおわかりだと思うが再現してみよう。

違和感を感じる

なんと無粋で稚拙な表現だろうか。目にしただけでムカムカしてくる。

それなら「違和感を抱く」と書くほうが余程自然。最低限これくらいの言葉選びをしてほしいところだが、何故かヘボライターにはできない。躊躇なく「違和感を感じる」と書いてしまうのだ。

どうしても「~感」を用いたい場合には「抱く」という言葉を繋げるのが無難。他にも「~感を生じる」「~感を持つ」「~感が芽生える」などがある。「感じる」を用いる妥当性はどこにもないのだ。

他にもこんな表現が可能。

奇妙な感じがする
妙な雰囲気だ

「違和感」なんて遣う必要は全くない。

罪の意識を抱く

「罪悪感を感じる」と書くくらいなら断然こちらのほうが良い。ここでも「抱く」を用いている。「抱く」は「感じる」という心情に近い表現ではなかろうか。

「覚える」のほうが好ましいとも考えられるが「重言と大差ない」「重言まがい」とみなされる場合があるのでやはり避けたい。よって「抱く」と書くのが妥当。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
「抱く」と同様「意識」という表現も便利だ。例えば「危機感」は「危機意識」と表現できる。

ヘボライターは「罪悪感」のような単語しか思い浮かばない。安直に「~感」で表現しようとするからこんなことになる。

「罪悪感」を分解して「罪の意識」という表現に再構成すれば「罪悪感を感じる」なんてみっともない重言を指摘され恥をかかなくて済む。

ヘボライターは「感感感感」とえらく感じやすいくせに、重言を避ける「感知器/センサー」がイカれているらしい。重言に対する「感度」が著しく低いから「~感を感じる」と平気で書けてしまう。マヌケそのものだ。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
センスがないヘボライターは「~感」に頼り多用する

こう覚えておこう。

鈍化したライターは猛省せよ

「~感を感じる」という表現に校正センサーが反応しないヘボライターが素人に影響を及ぼし、世間の誤認識を強固にするのは許しがたい。

「~感を感じる」
「感じる~感」

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
この表現を見て校正の網に引っかからない神経をしているならライターをやめて自害するべき

私は本気でそう思っている。

登場人物のセリフは世間の言語感覚を反映している
だからこういう表現でも構わない

そんな反論をする小賢しいヘボライターがいるかも知れない。

だが「~感を感じる」「感じる~感」といった表現を絶対に許せない神経でなければライターをやるべきではない。こんな無粋な重言に対して指摘されるまでもなく「あれ?」と思わない奴は間違いなく「鈍感」だからだ。

これはスポーツ選手にとっての動体視力や反射神経みたいなもので「~感を感じる」「感じる~感」という表現に何ら抵抗や反応がないならライターとして不適。

不適なライターは大抵他の表現もおかしい。

「とか弁」を多用したり、「てかつか」という表現に逃げたり、登場人物が一様に「ら抜き」だらけだったり。素人の私でも首を傾げるような言葉選びをしているような人間がライターをやっているのは社会悪だ。

とりあえず「普通におししい」という表現を擁護し「~感を感じない」と書くことに何らためらいがない平野啓一郎は切腹して死ぬべきだろう。

「自害するべき」「切腹して死ぬべき」は言い過ぎかも知れないが、猛省くらいはして欲しい。

「感」で世の中を埋め尽くして日本人を「鈍感」にさせる輩に私は断固抵抗する。そして叫び続ける。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
感感感感鬱陶しいわ!

と。

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語求(ごきゅう)
「適切な言語感覚」を探求する者。「言葉の変化全肯定論者」の軽薄さと危険性を独自の視点で暴き出す。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人よ。あなたの言語感覚は間違っていない。そんな奴らに屈するな。国防に必要なのは核武装 と言語の保守だ。アイコンはユルいが50代の筋トレおじさん。
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