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社会についての雑感

日本人よ、気概があるなら社会を食い荒らす「自称フェミニスト」なる害虫を駆除せよ

言語について書きたいことは山ほどあるのだが今回もブログの主旨と少し逸れた「身体性を無視し社会を食い荒らす害虫」である「自称フェミニスト」なる輩について私見を述べてみたい。

「身体性を無視し社会を食い荒らす害虫」とは何なのかは後々書いていこう。

因みにこの記事は書きかけである。暫くは修正と加筆を繰り返すつもりだ。

ご了承いただきたい。

身体性を無視した時「自称フェミニスト」が生まれる

さて「自称フェミニスト」とやらがあちらこちらの界隈で暴れまわっているようだ。私は横目で眺めている程度だったので個々の詳しい事情はよく知らない。

ただ、こいつらが「身体性を無視」した者達であることは明らかだ。無視という表現が行き過ぎなら「欠けた」でも良いが。

「身体性」とは何ぞやと思う人は下記の動画を観て欲しい。

動画内で浜崎洋介氏は「身体性」についてこう語っている。

浜崎洋介
浜崎洋介
インターネットを利用して買った本はダブることがある。買ったことを忘れているから。だが古本屋を回って買った本は間違いなく覚えている。

つまり「身体性」とは「体験」や「経験」と言い表すことができる。

私はインターネットを利用して買い物することが多いものの割合に覚えているタイプだ。故にオンラインショッピングでも身体性はあると思っている。

しかし、この浜崎氏と同じように重複して買ってしまったこともあるので実際に店に足を運んで購入するよりも身体性は弱いと言わざるをえない。オンラインショップに購入履歴があるお陰で辛うじて弱い身体性を補えているのだ。

インターネットでイチゴを買う「体験」よりも近所の果物屋のおっちゃんと軽い会話を交わしながらイチゴを買う「体験」ほうが身体性が強く、イチゴを育て出荷している農場での「イチゴ狩り体験」は近所の果物屋でイチゴを買う「体験」よりも身体性が更に強い。これは誰でも容易に想像できるはずだ。

もっと簡単な例は「漢字は読める。だが書けない」ことである。

インターネットを利用している百人にこんな問いを投げかけたとしよう。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
「けんさく」と「えつらん」を漢字で書いてください。

この問いに答えられる割合はどれくらいいるだろうか。もしかしたら十人いないかも知れない。お恥ずかしい話だが私は書くことができなかった。

恐らく、インターネット上での行いは身体性を損ないやすいというのは万人共通だろう。とりわけTwitterに代表されるSNSは身体性を損ないやすいのではないだろうか。

自称フェミニスト達が、ジェンダーがどうのフェミニズムがどうのと喚き散らす主たる場所がTwitterであるのは、身体性の面から考えれば必然と言える。

ただし、身体性を損なうからTwitterに執着するのか、Twitterに執着するあまり身体性を損なうのか。どちらかはわからない。

「身体性」を意図的に排除すれば全てに疑いを持つことができる

以前「おかさん食堂という名前は性別役割を想起させる」と主張した高校生がいたらしい。なるほど確かに言われてみればそうだ。「身体性を意図的に排除」すれば誰でもこの結論に至ることは可能である。

しかし「身体性」を剥ぎ取った結論は永続的な安定と豊かさを社会にもたらすだろうか。私の考えではもたらさない。

フリードマン以降のいわゆる「主流派経済学」も身体性を排除した理論の基で構築されており、ご自慢の経済モデルとやらに心酔した奴らがどれだけ社会を危機に陥れたかは周知の事実である。

意図的に身体性を排除すると、ほぼ全ての事柄に疑念と問題が浮かび上がる

例えば主従関係でもないのに配偶者を「主人」となぜ呼ぶのだろうという疑念が浮かんだとする。その疑念は自ずと「主人」呼称には問題があるという答えを導く。そして、封建社会・男性社会は悪だという結論に達する。

身体性を排除すればこの結論は正しい。しかし、身体性を加味すればこの結論は間違いである。それは何故か。「主人」と自然に呼びたくなる妻の体験や経験を無視しているからだ。

夫婦生活を営む中で各々別の役割を担い尊敬し合い支え合っていれば夫を慕う感情が育まれるのは自然の成り行きである。そして「主人」と呼べることを喜ばしいとも感じるはずだ。

「家内」呼びでも同様の道筋をたどることが可能であることを悟った人もいると思う。

思考と身体性を文学的に表現するこんな感じだろうか。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
身体性から切り離せば、思考はその翼を広げ際限無く自由に飛び回ることができる。

しかし、人間は地に足をつけて寄り添い生きていく動物だ。空高く舞い上がる思考では人間の生活にそぐわない。

あなたと私の身体性

「主人」呼びを例に身体性について述べてきた。

ここであなたは疑問に思わなかっただろうか。「主人」呼びを否定したくなる身体性もあるのでは?と。

その疑問は正しい。当然ながら「主人」呼びを否定したくなる身体性もあるだろう。

結婚生活を始めたら暴力的な夫に豹変した
信じられないほど高価なカメラのレンズをローンで買っていた
近所の買い物先で顔見知りになった女と浮気した
暇さえあればパチンコやスロットに興じ消費者金融にまで手を出していた

そんな配偶者を「主人」と呼べるならば、余程貞淑か鈍感な女性かも知れない。

夫を敬い慕う感情が育まれない場合は「主人」呼びなんてしたくなくなる。これは何も、うだつの上がらない夫や横暴な夫の存在を必要としない。共働きで家事や子育てを平等に分担している夫婦にも低くない確率で起きることだろう。

上記のような体験をしたなら当然主人呼称が胡散臭く見えてしまう。そして、主人呼称は旧時代の悪しき風習だと論理が展開するのは至極自然である。

ここで明らかなのは「身体性の違いで正反対の結論に至ることがある」ということ。

正反対の結論に至る

この部分を注視していただきたい。これこそ「多様性」なのだ。

多様性を踏みにじるのが「自称フェミニスト」

後日加筆予定。

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「適切な言語感覚」を探求する者。「言葉の変化全肯定論者」の軽薄さと危険性を独自の視点で暴き出す。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人よ。あなたの言語感覚は間違っていない。そんな奴らに屈するな。国防に必要なのは核武装 と言語の保守だ。アイコンはユルいが50代の筋トレおじさん。
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