今回は「リベンジ」の誤用について持論を述べたい。頭のネジが飛んだような表題だが、これは私の立場からの言葉ではない。
誤用を指摘されて反発したり擁護する立場の人たちの考えを延長した先にある結末を元にしている。
なぜ「焼き殺して」と発言しても罪に問われないのか。
新たな視点を得る手掛かりになれば幸いだ。
全部まとめて「リベンジ」「リベンジ」
再挑戦や再試合を「リベンジ」と表現する人が非常に多い。あろうことか、飲食店の再訪時にさえ「リベンジ」の誤用をする人がいる始末。
といった具合に。
何でもかんでも「リベンジ」「リベンジ」と鬱陶しくて仕方ない。意図せず見聞きさせられることが多いので怒りすら覚える。カタカナ英語を日本人が用いる場合、再挑戦は「リトライ」再試合は「リマッチ」再訪は「リビジット」あたりが妥当だと思う。
語義変化を安易に認める人は「語義の相対化」を行っている
「リトライ」「リマッチ」「リビジット」この程度の分別すらできないのはオツムがかなりユルユルなのではなかろうか。「リベンジ」の意味くらい調べてこいと言いたくなる人がいるのも頷ける。
しかし、例のごとく
と猛反発されるのがオチ。
語義変化を安易に認める人、即ち「語義変化容認論者」の主張は「俺たちの語義はお前のとは違うんだよ!」ということ。
彼らは「語義の相対化」を行っていることにお気付きだろうか。
【語義が共有されないと会話が成り立たなくなる】
(ポストモダンは)客観的な真実なんてないんだと。全てが相対的であると。あなたの見方はこうかも知れないけど私の見方はこうだから。価値も言葉の意味も「脱構築」できると言うんですよ。水島さんにとってのある言葉の意味が僕とは違うんだから、と。客観的に共有できる価値基準がないと堂々と言いだしたのが彼ら(ポストモダニスト)。そうするとコミュニケーションできないんですよ。伊藤貫
勝ち誇ったように「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」というセリフを引用している思考腐敗野郎を見かけるが、あれは「価値観の相対化」。
因みに作者はセリフの用い方の誤りをやんわりと指摘している。
この画像も使ってくれて全然かまわんのだけど、正直「解像度わる〜い」のが切なかったんでもうちょいマシなの置いとくからこっち使ってくれよな!んで本編だと世間的に使用されてるニュアンスじゃないから少女ファイト1巻よかったら読んでくれよな! pic.twitter.com/8GHdeAe2Op
— 日本橋ヨヲコ★1/21少女ファイト18巻予約受付中 (@yowoko) 2016年6月10日
語義の変化は「相対化の絶対化」
語義が相対化した場合、理屈上は話が通じなくなる。語義を共有できないのだから当然だ。とはいえ実際は「俺たち側」なる多数派が少数派である私側の語義を制圧することにより、かろうじて話が通じるようになる。
語義が多数派により置き換えられるという現象は相対化を経て新たに語義が絶対化されることを意味する。
つまり、語義の変化は「相対化の絶対化」を繰り返し行う運動なのだ。
「いや、リベンジの語義を拡張しているのだから制圧じゃないだろ」「復讐、仇討、怨恨の意味も残しているのだから寧ろ合理的だろ」と考える人もいるだろう。
だが、私はそう考えない。「語義が拡張されたリベンジ」は「必殺技」に限りなく近付いたのが現実だからだ。もはや「必殺技」に悪しき要素を感じ取ることはできない。
必殺ダブルセーラーキック/必殺エクストラヴァージンオイル/必殺確殺シュート/必殺シャイニングフィンガー/癇癪持ちの最終必殺技灰皿ソニック/ルビィちゃんの必殺技ずら~/必殺技はあなただけのものじゃない/俺らしい必殺技/必殺の超絶ウルトラスーパーレイトブレーキング/必殺技の応酬/新必殺技って何ですか/編み出される必殺技/必殺!(以下略)/タイガーマスクの新必殺技/必殺技です/これぞ敵の目を欺く必殺の策、彼女だ/二体セットじゃなきゃ必殺技ができないよ/必殺、姉の威厳/必殺瓦投げ/必殺レッド・ファントーム/超必殺ゴウスパーク/必殺ぽぷらビーム/そのままゴッドガンダムの必殺技で押し切るのよ
語義を拡張すると悪しき要素を維持することが難しくなる。
また「語義が拡張されたリベンジ」によって「リトライ」「リマッチ」「リビジット」などの出番はほぼなくなる。なぜなら「リトライ」「リマッチ」「リビジット」などが「語義が拡張されたリベンジ」という一つの言葉に置き換えられてしまうからだ。
これも「相対化の絶対化」である。
「相対化の絶対化」を推し進めると語義は悪しき要素を失う
その前提を踏まえた上で私が次の発言をしたら「語義変化容認論者」はどう反応するのだろうか。
彼らは犯罪成立要件有りと判断し通報するかも知れない。
しかし、よく考えてみて欲しい。
「語義変化容認論者」の立場をとれば、語義が相対化拡張化された後、絶対化され悪しき要素が失われる確率は「お前たちを焼き殺して」にもあると言わねばならないはずだ。でなければ理屈が通らない。
理屈からすれば、別の語義を持ち出したり、それを安易に受け入れた瞬間に全てのフレーズから悪しき要素や犯罪成立要件が失われるのを認めたことになるのだ。
「語義変化容認論」の限界
意味不明なことを言うな!と怒るなら下の記事のコメントを見て欲しい。
わたあめ より:
マイナスを示す程度表現が強調のみ残すことは、言語史上多く見られることです。例えば我々が普通に使う「凄く」なども、もともとは「凄惨な、おそろしい」というようなマイナス表現の意味です。
こうした言語の変化に時代時代の人々も敏感でして、しばしば問題提起しておりますが、結局浸透してしまって、後世普通に使われることが多いかと思います。
「クソ〜」もその道を辿るのではないでしょうかね。私は育ちが悪く、なかなかに許容できてしまいお恥ずかしい限りです。
このコメントは下の記事でも引用している。
これは「語義変化容認論」に軸足を置いている人の典型的なコメントだ。この手の意見は消化不良を起こしそうなほど至るところで見られる。
では私が都合良く変節してこんな主張をしたら「語義変化容認論」に軸足を置いている人はどう対応するのか。
当然「語義変化容認論者」は許容しなければならない。
なぜなら
と前置きした上で
と付け加え
と結論しているのだから。
「必殺技」からは既に悪しき要素が失われ「リベンジ」も早々に仲間入りしている。
ならば「焼き殺して」から悪しき要素や犯罪成立要件が失われることも有り得ると論理を展開しなければ筋が通らない。
語義変化容認論なら「リベンジの誤用を擁護するお前たちを焼き殺してリベンジしてやる」と言っても罪に問われない理由を説明できてしまうのだ。
であるならば
と堂々と言っても咎められない日が来るかも知れないぜ♪ヒャッハー!!!!!!!!
したり顔で「昔は〇〇も悪い意味だった」と言い放ち弾圧してきた奴らは、今後「ぶち殺したい」「ぶち殺す」といった文言から悪しき要素や違法性が失われることを認めるべきなのだ。
そして、私が悪しき要素や違法性が消え去ることを先取りして「ぶち殺したい」「ぶち殺す」と言っても批判や非難をしてはならない。自らの論理に反するからだ。
「必殺技」にはもう残酷な要素は見当たらない。「リベンジ」はパッパラパーな日本人が原義から悪意を消し去ってしまった。
「テンション」にしても状況によっては対極の意味として用いられている。日本人はオメデタイ民族だぜ、まったく。
自らテンションの誤用をする不思議な米国人。何故テンションの誤用に疑問を持たないのか。
正しいテンション
無自覚な利己の肥大化が極端な表現を呼ぶ
あなたはこんな言葉が飛び交っている場面に遭遇したことがないだろうか。それともあなた自身がこういった言葉を発していないだろうか。
大袈裟な言葉を選んでしまうのは、それほどまでに感極まっているからだろうと思ったあなたは既に麻痺している。
語義を毀損してでも強い表現が欲しいのは自分の存在を大きく見せて価値を高めたいからだ。これは自分の体験に用いるだけではなく他者の存在を大きく見せ価値を高めたい場合にも起こる。他者をオーバーに持ち上げることで最終的に自分の価値が高まるとふんでいるからだ。
上のセリフは、魅力的な曲を聴く状況に身を投じている自分と、曲そのものを大きく見せて価値向上を狙う意図が感じられる。「コスパ最強」なんて表現も同類。アホ丸出し。
最強過ぎる
神過ぎる
神対応
超神回
絶対〇〇
最速で〇〇
最短で〇〇
女子力
語彙力
鈍感力
「大きく見せて価値が高いと思わせたい」
そういった欲求は人を極端な表現の多用へと誘う。今やテレビだけだなくYouTubeでも極端な表現だらけだ。「無自覚な利己の肥大化が極端な表現を呼ぶ」のである。
「無自覚な利己の肥大化が極端な表現を呼ぶ」と前述したが、ピンとこない人もいるだろう。そんな人は因果を反転させてみるとしっくり来るかも知れない。
「極端な表現が無自覚な利己の肥大化を呼ぶ」このように因果を反転させると、もしかして自分は当てはまるかも、あるいは、あの人当てはまっているかもと思えてくるのではないだろうか。
因果の反転から見えてくるのは「螺旋のように利己が肥大する」という動的な概念。「極端な表現」から「利己の肥大」が起こり、また「利己の肥大」からも「極端な表現」が引き寄せられる。
中川翔子みたいになるぞ
利己肥大スパイラル
「螺旋のように利己が肥大する」という動的な概念は、差し詰め「利己肥大スパイラル」といったところ。「リベンジ」の乱用も「利己肥大スパイラル」の一要因と言える。
この「利己肥大スパイラル」は本人だけではなく、私のような大袈裟な表現を好まない人間まで巻き込んでしまう。
例えば下記のような謳い文句でノウハウを発信している人がいるとしよう。
こんなタイトルを世間に平然と発信できる奴は大抵インチキ野郎だ。そんなインチキ野郎の被害者を減らすために時として「強い表現」を遣わざるをえない場合がある。
私は感想で「神」や「最強」など一度も遣ったことがない。勿論「リベンジ」なんて言葉を持ち出さなければならない日常生活を送っていないので用いることはない。しかし否応無しに「利己肥大スパイラル」の余波を受けてしまうので、それなりのカウンターが必要になる。
一歩間違えると自分も利己肥大スパイラルに取り込まれかねないところだ。利己肥大スパイラルに取り込まれずに踏み留まれる境界線があるとすれば、それは言葉の持つ性質を自覚しているか否かだろう。
殺害予告の違法性さえも無効化されるリスク
実際のところ私の生きている時代では「焼き殺して」という発言から悪しき要素や犯罪成立要件が失われることはないかも知れない。
そんな反応をしたくなるのもわかる。
ただ、物事をできる限り深く考えておくのは非常に大切だ。
京都アニメーションを襲ったあの悲惨な放火事件の犯人は殺害予告を送っていたらしい。京都アニメーションに限らず加害予告が届くことはよくある。
表題や記事内で「焼き殺して」と書いたのは京都アニメーションの理不尽な悲劇を重く受け止めているからだ。
語義の変化は「相対化の絶対化」を繰り返し行う運動であると先述したが、この運動が盛んになるほど殺害予告の違法性さえも無効化されるリスクが累積することになる。
語義が揺らいでも悪しき要素や犯罪成立要件は揺らがないと誰が保障してくれるのだろうか。そんな保障は誰にもできないのだ。
現代に生きる我々はどの時代の人よりも多くの事例を集めることができる環境にいるのだから、謙虚かつ冷静に過去の出来事から学ぶ姿勢を忘れてはならない。
現代人は最良の判断ができると胸を張って言いたいなら「語義を相対化させ絶対化する」弊害もしっかり考えて然るべき。
リベンジの誤用に疑問を持たないお猿さんへ
「リベンジ」「リベンジ」と連発しているのを見ると「お前らはイスラム過激派か」と言いたくなる。
いっそのことイスラム過激派に突撃して欲しいものだ。イスラム過激派が衰退したとはいえまだいるだろう。
あるいは、イスラム過激派に加わり米国兵の一人や二人ぶっ殺して貰いたい。ついでにブッシュジュニアやオバマもぶっ殺してくれたらありがたい。
これこそ真っ当な「リベンジ」だ。
広島に原爆が投下されるシーンが映し出されたときに、オバマ大統領は足を組みながらガムを噛んで拍手していた。
オバマは核兵器予算を30%増やしている。
オバマは八年間で三千件以上の大統領暗殺命令を出している。初代から第四十三代大統領が出した暗殺命令よりもオバマ一人が出した数のほうが多い。
オバマは二十年間で新しい核兵器を作るのにone trillion dollar =$ 1,000,000,000,000(一兆ドル) の予算を使うと決めてから、広島に来て「日米の国民が心を合わせて核のない世界を作りましょう」と言った。
$ 1,000,000,000,000(一兆ドル)は世界最大の核兵器予算。
語義を踏みにじって軽々しく「リベンジ」を遣う日本人の行く末が心配になる。残酷な言葉が誤用され日常会話に蔓延しているのは咎める者が少なく野放し状態だからだ。
咎めるどころか擁護する者の方が多いのだろう。擁護する者が多いことの方が実は深刻な問題。呆れるほど平和ボケしたお花畑のパッパラパーなのではと思えてならない。
今の日本が「有事」に突入していることすら気付かず「ライブ行けなかったので次こそ参戦してリベンジだぁ!」「これ超神アプリじゃん!」「女子力アップしなきゃぁ」といった具合に利己の肥大が蔓延っている。それと自覚できないまま。
本当にリベンジしなければならない相手は
本来リベンジはアメリカにするべきだ。「リタリエーション」の方が正確かもしれないが。
歴史を紐解けばアメリカは紛れもないチンピラ国家である。
日本はさっさと核武装して
と脅しをかけるくらいして欲しいものだ。
そうすれば、真の意味で多くの国から称賛されるだろう。
中野剛志
日本人は非常に冷酷で身勝手で利己的で現状の分析もちゃんとできない民族だということが証明されたわけですね。