当ブログについて

当ブログの趣旨は適切な言語感覚を探求すること

当ブログの趣旨

適切とは何かを考える

漸く適切な日本語表現を考えるブログを開設した。ここでは好ましい言葉選びとは何かを綴っていきたい。

ただ、文法や辞書に厳格であることとは少し違う。「適切な言語感覚を探求するブログ」と申し上げたほうがわかりやすいかも知れない。

なぜなら、文法や辞書を逆手に取り「これも間違いではない」と発言する小賢しい人がいるからだ。

例えば「〇〇感を感じる」は間違いではないと平気で言えてしまう「鈍『感』人」や「恣意的」は「意図的」のように用いても構わないとほざく「専門家」など。

こういう人達は往々にして「多数派肯定者」や「記述主義信奉者」だ。

「多数派肯定」や「記述主義信奉」の立場をとらない私からすれば「お粗末な言語感覚」に見えてしまう。

適切とは必ずしも綺麗で丁寧な選択ではない

こんなブログをわざわざ作ったのだからから、さぞ上品で丁寧な言葉選びをしているのだろうと想像している方は記事タイトルや文章に眉をひそめるかも知れない。

私は殺意を抱きやすい性分でよく浮かぶ言葉が「ぶっ殺したい」である。なんとも物騒な表現だと我ながら思う。

勿論「殺意」があるからと言って「殺し」を実行するわけではない。

理由は二つある。

1.殺したい奴が増える一方でキリがない
2.一人や二人殺したところで世の中に何の影響も及ぼさない

大凡の気持は故・西部邁氏と同じなのだ。

あいつ一匹でいいっつうなら、僕殺しにいきますよ

あまりにも非道なことには復讐せざるべからず

とはいえ、日本語や言葉遣いを大切に思う人からすれば「本末転倒」で「不適切」と感じるのではないだろうか。私が考える「適切」の判断基準は「良い意味か悪い意味かを自覚して言葉を選んでいるか否か」だ。

例えば「リトライ(再挑戦)」や「リマッチ(再試合)」などを全て「リベンジ(復讐、仇、怨恨)」と表現するのは不適切。一方、家族をレイプした犯人に対して「ぶっ殺したい」と表現するのは適切。

「クソ」についても同様のスタンスで語っている。

褒め言葉として「クソ」を乱発する奴らを肥溜めに放り込んでやりたい
褒め言葉として「クソ」「クッソ」を乱発する奴らを肥溜めに放り込んでやりたい言語の観点からすれば、そいつらは現代的でも進歩的でも寛容でも無い。不寛容で古臭いと呼ばれるべきなのは本来そいつらである。何故なら「大衆の気分で選んだ価値判断は失敗だらけだった」という例を現代人は沢山知るっているはずだからだ。もし、それを知らないならば情報化社会に生きている現代人とは言えないただのパッパラパーである。...

爆破してやろうかと思った

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文を見た故・小野田寛郎元陸軍少尉の言葉だ。

肝心なのは「言葉が包括する感情」である。故に私は「語義」を慎重に見つめ、それが心無い人達の気分次第で揺らぎ転化する様を警戒する。「死亡した可能性」なんて表現を目の当たりにして「不適切」だと感じない世の中は間違っていると思う。

このブログがあなたの「言語感覚」を見つめ直すきっかけになれば幸いだ。

管理人が企業個人問わず言葉遣いの改善を提案した実績はこちら。

【随時更新】管理人の活動実績大手新聞社やテレビ局といった企業、個人ブログ、まとめブログなどへ意見を届けた。しかし、その殆どが提案を受け入れることなく現在も活動している。「可能性」の誤用に関しては惨敗だ。よって「実績」とは言い難い。私が不適切と感じる表現はこの他に多数ある。随時更新していくつもりだ。...

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語求(ごきゅう)
「適切な言語感覚」を探求する者。「言葉の変化全肯定論者」の軽薄さと危険性を独自の視点で暴き出す。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人よ。あなたの言語感覚は間違っていない。そんな奴らに屈するな。国防に必要なのは核武装 と言語の保守だ。アイコンはユルいが50代の筋トレおじさん。