お前はキチガイ
私は何度か「はてなブログ」の無名投稿をしたことがある。主に言葉遣いに関することだ。
箸の使い方で論争が巻き起こっていた際に自説を綴ったこともある。
言葉遣いの記事に対する反応の一つがそんなコメントだった。それが凄く印象に残っている。殺意をチラつかせた文言があったので「キチガイ」と評価されても仕方ない。
殺意をチラつかせてしまうのは私の性分だろう。ただ、どうしても攻撃的な表現になってしまうのには、それなりの背景があるのだ。
社会構造に組み込むことへの懐疑とは「保守思想」
話を端折るが、私は「新規」や「変化」に対する警戒がある。言葉遣いも含めて。
新規な仕組みを社会に導入すべきか、その変化は後の日本にとって危険ではないのか。そんなところだ。新しもの好きで、すぐに飛びついていた昔とは大違い。
組み込むことへの懐疑。これこそ「保守思想」の基本である。
この懐疑は何ら奇異なものではない。保守思想とは別段特異なものにあらず。
懐疑の視点を持てば、社会に組み込むのは好ましくないという結論に至る対象は多い。これもとりわけ懐古趣味だ時代遅れだと揶揄される道理がない。
保守思想とは自動車教習所で学ぶ「かも知れない運転」と同じなのだ。
「かも知れない運転」という表現は、いささか幼稚で好みではないが、喩えとしてご理解いただけるだろう。
保守思想とは万人が持っているはずの知恵。持っているはずなのだが、自覚するまでに個人差があったり、国家という枠組みで見ることができずにいるのが現実である。
社会と言語表現
社会と言語表現は一体なので、当然ながら「言葉の変化への安易な肯定」や「新語・造語への安易な受容」を警戒せよ、懐疑を持つべきと私は考えている。
ポイントは「組み込まれつつある」「組み込まれる前」が主な対象になっていること。
既に組み込まれたものを取り払うと、社会に混乱が起こりかねない。だからこそ、組み込まれる前に阻止する活動が大切になってくる。
しかし、力及ばず社会構造に組み込まれていくのが常。
組み込まれてしまった対象に異を唱えるのは「革命」とみなされる

アプリケーションで言えば「LINE」は既に組み込まれている。「TikTok」「Zoom」もほぼ社会の営みにビルトインされるだろう。
保守思想を実践するのが難しいのは、既に組み込まれているものを取り払うべく行う活動が「革命」と同質になってしまうということ。
「組み込まれつつある」「組み込まれる前」が主な対象と先述したが、実は組み込まれてしまったのかの判断は難しい。
私が「キチガイ」と言われる構図もこれと同じ。「キチガイ」呼ばわりされる理由を要約すると次のとおり。
- 「既に組み込まれたもの」も対象にしている
- 阻止するために激しい表現が増える
私としては「組み込まれて間もない」表現も題材に選んでいるのだが、それは「変化とやらの実像は陳腐」というのを身近に感じてもらえると考えているからだ。
そして、あなたが「無警戒な精神」への懐疑を持ってくれることを願っているのだ。
確かに私は先述した通り「殺意をチラつかせてしまう」表現が多い。
と言いたくなることがよくある。
現時点で私のことを「キチガイ」とあざ笑うことを咎めるつもりはない。後になって「あいつの主張は案外まともだったのかも」と思ってもらえれば本望だ。
私はもちろん「LINE」や「TikTok」には反対し続けたい。
同時に「言葉の変化への安易な肯定」や「新語・造語への安易な受容」という「無警戒な精神」にも異を唱え続けたいのだ。
個別に語義や用法について記事を投稿しているのは、異を唱え続ける一環である。
悲しいかな、異を唱え続けるにはワードプレス、Twitter、インターネットなどの近代技術を利用しなければならない。しかも全て他国製という事実に複雑な気持になる。
僕はまだ人を殺したことはありませんが人を殺せるように頑張ります
あいつ一匹でいいっつうなら、僕殺しにいきますよ
全員殺してくだちゃい♪
コロスゾ♪
「クラック」か「貫入」か
メートル・キログラム
近代建築
西暦
洋装
日本国憲法(米国製インチキ憲法)
Amazon
Microsoft
Google
You Tube
他多数
日本はこれまで様々なものを組み込んできた。
では、これまで組み込まれたものは本当に日本の幸福を後押ししてくれたのか。日本という国家を安定化させ強固にしたのだろうか。よく考えてみられたい。
特に明治以降。近代化の速度と規模は適切だったのか。そもそも近代化するべきだったのか。今更戻るわけにはいかないが、検証する意義は大きい。
「クリスマス」「バレンタイン」はもう日本にビルトインされており、今更これらを排除することは非常に困難だ。「ハロウィン」も恐らく定着するだろう。「Made in China」からも逃れることはできない。
私とてクリスマスやバレンタインの思い出は沢山あるし「クリスマス・エクスプレス」のCMに切なさを覚え、クリスマスソングを聴くと心が踊ったり厳かな気持になる。
こんなのを観ればひょっとして「クリスマス」いらないと思うかも知れない。
遠い昔、服にも熱中した。
DCブランドを手始めにショップによく足を運び、アパレル関係者のツテでサンプルやB品にまで手を出し、海外デザイナーの服に夢中になり、パリコレをはじめとするショーを何度も観てはモードの世界に心酔した。金が無いのによくあんなにも服を買ったものだと思う。
こんな経験をした私でも、日本の先々のことを思うと、何でも安易に組み込んで良いのかという「懐疑」が頭をもたげてくるのだ。
社会に新たな制度や技術や理念を組み込む度に日本という国家に小さなヒビ「クラック」が入っているのではないかと考える人がいる。建物で言うところの「クラック」のことだ。
全てとは言えないが、組み込む度に小さなヒビが入り、建物の機能を損なう恐れがある。崩壊の危険がなきにしもあらず。そんな考えだ。
一方でこう解釈する人もいるだろう。その小さなヒビは陶芸で言うところの「貫入」であり、美しさを引き立てるのだと。
社会に新たな制度や技術や理念が組み込まれる場合、次の三つのスタンスがある。
- 組み込むことが好ましいという善意
- 組み込むことで国を弱体化させるという悪意
- 組み込まれようが本人次第という無関心型自己責任
これらのスタンスに懐疑を持たないならば、幾世代を経て、いずれ国家を危機に陥れるだろう。
グローバリゼーションと言葉の変化容認は相性が悪い
これから述べることは私が初めてだと思う。仮説に過ぎないので信憑性は低い。批判を承知で書いておく。
これまでの保守論壇のみならず、あらゆる思想家、哲学者、作家などでさえこの視点で語ったことはないだろう。
それは「グローバリゼーションと言葉の変化容認論は相性が悪い」という視点だ。
日本は外圧により開国をし、近代化を進め、グローバリゼーションの流れに乗っている。グローバリゼーションとは「人」「モノ」「金」が移動しやすくなることだ。
グローバリズムという思想(国の壁を壊すべし/規制緩和推進)が影を潜め速度が落ちたとしても、グローバリゼーション自体が止まることは恐らくない。
「グローバリゼーション」と「グローバリズム」
そんな流れの中で、語義や用法を気紛れに変えることを許す精神を持ち続けるとどうなるか。想像より早い段階で「日本」は国としての存在意義をなくすだろう。
言語は壁の役割も担っている。英語化を推進する勢力は壁の役割を破壊したいのだ。

にも関わらず、言葉遣いだけは別、どんどん自由にしょう、どんどん変えよう、それで良いのだとやっていると、国境が消えたも同然になる。
防壁破壊を食い止めるには、単に英語化に反対するだけでは足りない。語義や用法をしっかり意識して慎重に扱う精神が必要。
語義や用法に関心が薄いのは、それだけ無責任でいられるということに等しい。
責任をとらずにいられるから、いつまでも「ネトウヨ」「パヨク」「アスペ」「ゆとり」などの言葉の定義を考えることなく、凶器として利用できるのだ。

責任を負う気がないから安直に「コスパ」「最強」「神〇〇」「〇〇力」と言い放つことができるのだ。





無責任だから「納金」「支払い」「購入」などの言葉を「課金」で上書きしても平気でいられるのだ。「防犯」に「対策」と表記していても受け流してしまうのだ。


独立を取り戻そうという気概もないくせに「リベンジ」を多用する。お花畑のパッパラパーだから「リベンジ」の誤訳誤用に無頓着でいられるのだ。


私を「キチガイ」呼ばわりするのも結構。
だが、グローバリゼーションが進む今の日本で、本当に「言葉は時代の気分で変えてきた」という事実を肯定的に解釈するのが好ましいかをよく考えてほしい。
三橋貴明「日常会話でやたら言葉の定義にこだわるやつ嫌でしょ」/西部邁「普段の言葉遣いは国家の存続に影響する」
日本国憲法は日本語でなはい
伊藤貫
(ポストモダンは)価値も言葉の意味も「脱構築」できると言うんですよ。水島さんにとってのある言葉の意味が僕とは違うんだから、と。
客観的に共有できる価値基準が無いと堂々と言いだしたのが彼ら(ポストモダニスト)。そうするとコミュニケーションできないんですよ。
佐藤健志
言葉は文化の基礎です。
略
どうも最近の安倍政権の言葉を見ていると日本語として意味をなしていない。