1.視点の違い
私は国家という視点から語義や用法の変化を警戒している。
一方、語義用法変化肯定論者は個人や小さな共同体からの視点しかない。
言語は国家にとって思想的な基盤(インフラストラクチャー)というのが私の認識だ。いささか物質主義的な形容だが、ここで言う基盤とは、思考や文化の根幹をなす精神的なものである。
言葉は思考の源。思考から文化は育まれる。変化ばかり続ける不安定な言語では思考もままならず、文化も一過性の刹那的なものしか形成されない。
言語は国家の基盤と先述したが、言葉や用法は基盤を形成する「パーツや材料」である。これまた物質主義的な形容だが、決してモノとして捉えているのではない。
- 道路を勝手に掘り起こして荒らしたり、ゴミや石を散乱させたりすれば、まともに通行できなくなる。
- 水道管から勝手に水を引いたり、水道管の材質を気紛れで変えたり、下水を流し込んだりすれば、たちまち生活はおかししくなる。
- 橋の材質や部品を思いつきで変えれば、安心して渡れなくなる。
- 語義用法変化肯定論者は日本語の中でこんな危険なことを許している自覚がない。
誤解してほしくないのは、言語は決して「道具」でははないということだ。
語義用法変化肯定論者はよく「道具」という認識で言語を扱う。私とて、別記事において「会話ツール」と書いている。
確かに「道具」という認識は適切なのかも知れない。ただ、その認識は「道具は使いよう」という粗雑な方向に進みやすい。
実際、気紛れで無自覚に語義や用法を変えてしまう奴らは、好ましい言葉選びを提案した私のような者に「道具は使いようだ」と対抗する。
その裏にはこんな感情がある。
また、気紛れで無自覚であっても、語義や用法の変化があるから豊かな文化が生まれるのだと主張する。
語義や用法の変化によって何らかの文化が生まれるのは一部認めよう。しかし、それらは国家の根幹を支えるものになり得るかは疑問である。
末永く国家を支える柱になる文化は、思考の源となるしっかりした語義と用法によって作られる。気紛れで無自覚な変化からではない。
2.問題意識の違い
私は語義や用法の変化が起こりつつある様子を目の当たりにしている。
そして変化の実態を次のように認識した。
変化とやらは、正誤/道徳/適正に無頓着なバカと、それを黙認、または容認した者によって起こる。昔の変化を見ても実態は同じ。
あなたも次のような言葉を目にして「それ、おかしいよ」と思ったことがないだろうか。
「いう」を「ゆう」と書いていたり
「延々と」を「永遠と」と書いていたり
壁際にいる女性へ男性が詰め寄ることを「壁ドン」と書いていたり
「される」という受け身表現を省略して「~が発売」と書いていたり
「リトライ(再挑戦)」を「リベンジ(復讐)」と書いていたり
「ゲリラ豪雨」や「飯テロ」という表現が一般化したり
語義や用法の変化とやらは、呆れる程に、くだらない悪しき慣習という側面が強い。私の認識からすれば、この悪しき慣習に対し問題意識が芽生えるのは当然だ。
とりわけ、国家という視点において、今後はこんなくだらない変化とやらを食い止めるべきという発想が出てくる。
だが、語義用法変化肯定論者は違う。語義や用法の変化を、当たり前の営みのように捉えているのだ。
語義用法変化肯定論者の主張は、漠たる二つの観念に行き着く。
1.変化するのは社会として当然であり良いことですらある
2.価値判断は時代ごとの皆の情緒に委ねられるべき
漠たるこの二つの観念が、語義や用法の変化を黙認してきた。
誤りですら正しくなる状況に異を唱える人が少ない、あるいは異を唱える人が何故か否定されるのは、目下、生死に関わらないからだ。
しかも、正誤が不安定な状況を繰り返し、時代の気分で変容した語義や用法が多数存在する言語に対して次のような風潮が染み付いてしまうのもやむなし。
これでは問題意識が芽生えるはずがない。
私は漠たる二つの観念に疑問を抱いている。そして、これらの観念を根拠に放置される語義や用法の変化とやらに問題意識を持っている。
私と語義用法変化肯定論者とは問題意識の有無が全く違うのだ。
3.危機意識の違い
前項で述べた問題意識だが、私の中ではもはや危機意識へと達している。
私は語義や用法の変化とやらは、くだらない悪しき慣習であるのが実態だと確信している。そして、国家という視点から、語義や用法の変化を許す二つの観念を問題視している。
これらの観念は国家を不安定にする恐れがあるからだ。
1.変化するのは社会として当然であり良いことですらある
2.価値判断は時代ごとの皆の情緒に委ねられるべき
歴史上、これらの観念が国と民を混乱や悲劇に陥れたのは明らか。私が危機意識を抱くのは当然である。
語義用法変化肯定論者は日本が混乱や悲劇に陥ることがないと思っているのだろう。
それも仕方ない。米国に隷属している状態を実感できず、それが今後どれだけの混乱と悲劇を招くことになるのか想像もできないお花畑なのだから。
お花畑だから、いつまで経っても隷属状態から脱却できない。寧ろ脱却するつもりもないのだろう。自分たちが生きている時代さえ危機がなければそれで良しということだ。
無論、奴らからは微塵も感じられない。隷属状態だからこそ言語をしっかり保守しようと考える姿勢は。
語義用法変化肯定論者の正体
個人や小さな共同体の視点からすれば、語義や用法の変化は生死に関わることではない。しかし、漠たる二つの観念の元に下される価値判断は国家の存続にとって不安要素でしかない。
言語を情緒でいじくり回し続けることは国家の思想的基盤を破壊しかねないのだ。道路/上下水道設備/橋などを、誰の許認可もなく、協議の上の合意もなく、その場その時の気紛れで改変し破壊しているのと同じだと奴らは気付けない。
未来の国民のことなんて全く考えていない奴ら。それが語義用法変化肯定論者の正体だ。