故・西部邁の間違いから明らかになる本質論
保守的政治として「サヨク国家」との連携はあり得る
西部邁先生はこの態度を批判していた。
左翼の定義
これは国家戦略として成り立つ。よって、相手がサヨク国家であっても「保守的政治」の手段として軍事的連携はあり得る。
「強い相手とわざわざ対立する必要はない」
「強い相手を味方につけるほうが先々有利」
「まだまだ日本が自立する好機は来ない」
「無闇な反米姿勢はバカのやること」
岡崎久彦や田久保忠衛の論理はまさに上記の認識によるもの。櫻井よしこ氏も同様の認識なのだろう。
実に「利口な考え方」だ。
合従連衡という言葉があるように、軍事力の変化に合わせて「サヨク的」「侵略的」な国と組むことも視野に入れるのは正しい。今のロシアは紛れもなく保守的でありナショナリズムが最高潮に達している。
そんなロシアは、あの「シナ」や「北朝鮮」と軍事同盟状態になった。プーチンをはじめとするロシア人が「保守」なのに、である。
故に、西部先生が指摘する「ソ連に付くのが革新でアメリカに付くのが保守」というのは暴論ともとれる。
「親米は左傾化」であることを見抜いていた西部先生
ならば、西部先生の暴論は的外れだったのだろうか。私はそう思わない。
寧ろ「的を射ている」と思い至った。
「親米はサヨクと同質」だと西部先生は見抜いていたからだ。
国家生存戦略としての「日米安保条約」はいつしか「日米同盟」と呼称されるようになる。
この時点で既に日本は三つの観念が固定化した。実際にはもっと前からだが、象徴的な例として「日米同盟呼称」を挙げておく。
1.まだまだ日本が自立する好機は来ない
2.無闇な反米姿勢はバカのやること
3.アメリカ追随は賢いやり方
これぞ「親米体制の確立」と言えるだろう。
米国は「サヨク」なので、それに追随する日本政府が「左傾化」するのは必然。
なのだから。
「親米」はこの三つの固定観念が生み出した「左傾化現象」なのだ。「策士、策に溺れる」といったところか。
やがて「日米同盟」は「ニチベードーメー」という呪文になった。「憲法第九条を守れ」という呪文と同質である。
この「同質性」こそ西部先生の暴論が「的を射ていた」と思い至った根拠だ。
日本の政党は「利口な考え方」で共通している
同質性について論を進めよう。
戦後日本は殆ど「自民党」が政権を担ってきた。「自民党」は、概ね「親米」であり「サヨク」。そもそも党名が「サヨク的」なのだから当然か。
自由民主党=Liberal Democratic Party/リベラル・デモクラティック・パーティー
反自民党の「日本共産党」「社民党」などは革新派やサヨクと呼ばれる。近年だと「れいわ新選組」も反自民党。
野坂参三や鈴木義男がいた頃の日本共産党及び旧社会党は別として、いわゆる反自民党の論調は次のようなものである。
「軍国主義は日本の汚点」
「我が日本は戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認を貫くべきだ」
「唯一の被爆国だからこそ核兵器廃絶を主張できる」
「原子力発電はおろか、核兵器なんてもってのほか」
「軍拡はバカのやること」
これまた「利口な考え方」である。
自民党の「親米体制」を支えている岡崎久彦や田久保忠衛らの「ニチベードーメー」論と、福島みずほの「反軍拡護憲」論とは「利口な考え方」で一致しているのだ。
そもそも「ニチベードーメー」と「反軍拡護憲」の源流は米国である。ただ、米国の予想以上に日本は呪文にすがっているのだ。
西部邁
日米安保の相手がもし中国と長期的な戦略の元に軍事的なパートナーシップを作りつつあるとしたら、一体日米安保ってのは何なんだと。
日本を表すキーワード「小賢しさ」

中野剛志氏はチャネル桜の討論の中でこんな趣旨のことを述べていた。
少し自称保守の弁護をすると「保守」は「反動/アンチテーゼ」でしか存在できない。
「自由・平等・博愛」や「啓蒙思想」からくる「設計/進歩/合理の主義化」に対する懐疑と批判が「保守」。
それは「保守」が思想として形成された「フランス革命の省察 (エドマンド・バーク著)」を見れば明らか。
中野氏は勿論それを理解している。
中野氏が問題視しているのは「反動/アンチテーゼ」としての「ベタベタな現実主義」が「米国追従」を強化すること。
そして「米国追従」を続けるために「小賢しい理屈」が必要になったTPP交渉参加賛成派に対してである。
冒頭の項目【保守的政治として「サヨク国家」との連携はあり得る】で記したことを思い出して欲しい。
「強い相手とわざわざ対立する必要はない」
「強い相手を味方につけるほうが先々有利」
「まだまだ日本が自立する好機は来ない」
「無闇な反米姿勢はバカのやること」
結局、これらが導いたのは「米国追従の強化」を正当化するための「小賢しい理屈」だった。米国のイラク侵略戦争に「人道支援」と称して加担したのも「小賢しい理屈」によるもの。
革新派/サヨクが掲げる「空疎な理想主義」「自虐的な歴史解釈」を正当化するための「小賢しい理屈」と何が違うのだろうか。
互いに「利口な考え方」がいつしか「小賢しい理屈」に変質したのだ。
西部邁・中野剛志(2012年1月21日)【戦後保守】保守=経験を積んだ大人の知恵、懐疑主義・有機体・漸進主義、行動ありきの馬鹿保守、政治の根本は批評、Integrity「総合性・一貫性・誠実」
「格好良さ」への渇望が「小賢しさ」を生む
「そばつゆ」と「NO NUKES」の共通性
こんな小話を耳にしたことがある。
人と野生動物を強引に分かつとすれば「格好良さ」。上記の小話に出てくる「粋(イキ)」は、まさに「格好良さ」の実践。
実に「格好良い」ではないか。
「広島」ではなく「HIROSHIMA」と表記するところも、何だかクール。
きっと日本語の国家は「格好悪い」という「いんたーなしょなる」な感性に響くからだろう。
「そばつゆ」と「NO NUKES」とは「格好良さ」で共通している。
「そばつゆ」と「NO NUKES」の大きな違い
ところが「そばつゆ」と「NO NUKES」には大きな違いあるのだ。あなたにはそれがわかるだろうか。
「バカ」と思われることへの恐れと「理性」への憧れの有無だ。
前者「そばつゆ」の話
前者の「そばつゆ」話の「粋(イキ)」は「格好良い」が、ともすれば「非理性的」で「バカっぽい」。寧ろ「格好悪い」という印象すら持たれかねない。
だが、小話の「粋(イキ)」男はそれを百も承知なのだ。「格好良さ」の実践をしているが渇望は見受けられない。
後者の「NO NUKES」の話
後者の「NO NUKES」は「格好良い」上に「理性的」なムードが漂う。
「格好良さ」は「理性」の裏付けが不可欠であり、「バカ」と思われることへの恐れであり、処世術なのだ。
あけすけに言ってしまえば「NO NUKESでウェーイ」したいのだ。
私からすれば小話の「粋(イキ)」男よりも「NO NUKESでウェーイ」のほうが数段バカっぽく見える。
「バカ」と思われることへの恐れと「理性」への憧れ
我ながら「バカ丸出し」。実に頭が悪そうだ。それは認める。
人はどうしても「バカ」と思われることへの恐れと「理性」への憧れからは逃れられない。故に私のような態度をとることはできないのだ。
「100年前までのアメリカ 黒歴史とその正当化(建国~19世紀)」
アメリカの歴史は戦いから始まった・・・心優しきインディアンの討伐
アメリカ軍の戦争犯罪
「小賢しさ」とは「中途半端なバカ」
【日本を表すキーワード「小賢しさ」】の箇所で中野剛志氏の意見をご紹介した。その要点を一行でまとめるとこうなる。
中野氏は自称保守のことを「バカ保守」あるいは「保守ではなくバカ」と称していた。
西部先生は「やっぱりバカって言っちゃいけないと思う」とたしなめていたが、TPPの議論で「保守を自負する」人間から散々「小賢しい理屈」を聞かされ賛成を表明するのを目の当たりにすれば「バカ保守」「保守ではなくバカ」と吐き捨てたくなるというもの。
ここからは私の見解。
私はこのように考える。
状況によっては私もすぐさま「中途半端なバカ」になってしまう。「バカ」と思われることへの恐れと「理性」への憧れが私にもあるからだ。「格好良さ」への渇望も捨てられない。
「言葉への無警戒」に現れる「小賢しさ」
いちいち言葉を指摘するの「カッコワルイ」

このブログは一応「言葉の問題」を中心に据えている。
よって、以降は言葉に焦点を絞って「小賢しさ」を論じたい。
日本を誇る際に「識字率の高さ」を挙げることがある。それが逆に「中途半端なバカ」を量産し「小賢しい理屈」をあふれさせているように思えてならない。
【「親米は左傾化」であることを見抜いていた西部先生】の箇所で、私はこのような意見を述べた。
ここに「言葉選びへの問題意識」は皆無。
「日米同盟」呼称に対して一部で激論になったそうだが、結局「慣用化」されたのだから「言葉の変化が、思想を悪い方向に誘導する」なんて考えもしない。
国民はこう思っているに違いない。
「寛容」の危うさと「慣用」の恐ろしさ
人口の多さ
情報の送受信のしやすさ
これらが揃うと「言葉選びへの問題意識」が希薄になることは避けられない。「言葉の変化寛容論」や「慣用肯定論」が力を増す。
「ニチベードーメー」という呪文は、そんな精神を根底した「現象のひとつ」に過ぎない。
日本人が米国の属領に甘んじているのは、開国前から引きずっている「言葉への寛容さ」と深く結びついていると、誰も気付かないのは当然だ。
こんな風に「言葉の変化寛容論」や「慣用肯定論」が力を増した世の中で、私の意見が「嘲笑」されるのは仕方がない。
「言葉の変化寛容論」や「慣用肯定論」は、実に「知的」で「理性的」で「良心的」。「バカ」と思われることへの恐れと「理性」への憧れを抱く人にとっては、欠かせない姿勢なのだ。
「寛容」の危うさと「慣用」の恐ろしさに気付かないままに。
「言葉の変化寛容論」「慣用肯定論」の強化は「小賢しさ」の量産を促す。「小賢しさ」は「言葉の変化寛容論」「慣用肯定論」をさらに強化する。
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「足元をすくわれる」は「間違いから昇華された言葉」って何ぞ?
あるサイトのコメントに私はこんな反応をした。
するとこう返信された。
「足元をすくわれる」が「昇華」って何ぞ?と私は首を傾げた。
くだんの「足元をすくわれる=昇華」さんは「慣用肯定論」という後押しがあるから、私の情報提供を「小賢しさ」で拒絶したのだ。
「足元をすくわれる」ではなく「足をすくわれる」の話は体験のほんの一部。
世間では「誤用」「誤伝達」「誤記憶」の連鎖が多発しており、それを修正するべく好ましい表現を情報提供しても「小賢しさ」で蹴飛ばされるのがオチ。
シナ人や朝鮮人に負け続ける原因
「小賢しさ」は不埒な在日/在留外国人への対処にも現れている。
これが世の真理であるならば「ペリリュー島」や「硫黄島」での戦いにより命を落とす人はいなかったはず。「特攻隊」や「義烈空挺隊」の存在も不要だったはず。
太平洋の向こう側にある大陸の先住民が大量虐殺されることもなかったはず。中東の子供たちが大勢亡くなることもなかったはず。ウイグル・チベットの人たちもしかり。
普段の言葉遣いは国家の存続に影響する
親が言葉を変えれば子供の将来が変わる/日本語教育が薄っぺらだから英語化でも良いということになる
論理的間違いを増やさないために言葉の定義を丁寧にする
専門用語に限らず言葉の定義をはっきりしないと話が噛み合わなくなる

日本を導くキーワード「本当のバカ」
ここまでくると残されている道はただ一つ。
例えばこんな具合に。
現在影響力があるかは知らないが、ケビン・メアやマイケル・グリーンなどの「ジャパンハンドラー」の首をはねてサッカーボール代わりにする。
そして、ジャパンハンドラーの頭を日向小次郎に「タイガーショット」してもらう。
日向小次郎 タイガーショット
実際にやるか否かは別にしても、これくらいの「暴言」があっても良い。
あるいはこんな発言も面白い。
田久保みたいに「ハウトゥサバイブ」だの「わざわざ強い国を敵に回す必要はない」だのと言ったところで、せいぜい「小賢しい外交」しかできない。
その「小賢しい外交」の結果が日本の悲惨な状況。
民主主義下の日本は「小賢しい」候補者や政治家しか出てこない。
有権者の情緒は「言葉に対する無警戒」の常識化を基に醸成されている。
そんな中、候補者や政治家は「有権者の言語感覚に合わせた」表現をしなければならない。
言語感覚に合わせていくうちに、やがて本人たちの思考が「小賢しさ」に染まっていく。
「小賢しい政策」になるのはやむなし。



どうせこんな不甲斐ない日本しか残っていないのだ。
いくら「ホロコーストはユダヤ人にしか適用しない表現」と愛国的言論人が訴えたところで国民には響かない。
ホロコーストはユダヤ人にしか適用しない表現
なんせ「飯テロ」や「ゲリラライブ」などの表現に抵抗がないのだから。
「本当のバカ」になることを後押ししてくれる三島由紀夫
近頃の私は「暴力」や「暴言」の肯定を主張している。
たまたま読んでいる本の中に、その主張を後押ししてくれる一説を見つけた。
「永遠の三島由紀夫」
第三章ギリシャ的晴朗-自由への渇望
7.魂に纏わせた肉体 143~144p![]()
さらに、『潮騒』に関する議論の中で、三島先生は「日本人はもっと愚かにならなければならない」 いうことを何度も仰っていました。
(略)
日本人もギリシャ人も神話の世界では、皆、その初心ではもの凄く愚かなのだと。「この愚かなところに人間らしさがあるのだ」と続けられたのです。
現代の人間というのは豊かになり、利口になり過ぎたので、一度こういう精神をうち壊さないと本当の人間には戻れないのではないかということを三島先生はいつも言われていたのです。
途轍もない知性の持ち主が言っているのだから、これは凄いことです。
先生を知っている方で、先生のもつ知性に圧倒されない人は多分いないでしょう。先生のもつ知は、昭和では頭抜けたものであったに違いありません。
しかし、先生の本当の力はそこではなかった。それは捨てる力にあったのです。
著者「執行草舟」氏と三島由紀夫の名誉のために補足しておく。
私はこの一説を「曲解し悪用している」のだ。あくまでも私の都合に合わせた引用であることをご理解いただきたい。


