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言語に関する考察

保守派や愛国者が注意すべき言葉遣い

いわゆる保守派や愛国心の強い人の言動に首を傾げることが多い。

「日本文化を大切にしたい」「日本を護りたい」「言葉は重要」と主張する保守派や愛国者。その割には「ズサンな言葉遣い」が目立つのだ。

当記事は「せめてこの言葉くらいは注意を払おう」と提案するのが目的である。

最低限、保守派や愛国者が注意すべき言葉遣い

早速本題に入ろう。注意すべき言葉遣いを挙げていく。

全ての言葉を意識するのが理想。だが、そこまで望むのはあまりにも酷だ。よって、せめて次項に記した言葉くらいは意識して貰いたい。

日本史

「日本史」という表現はよく考えれば奇妙である。

学校で「国語」のことを「日本語」とは言わない。ところが歴史に関しては違う。「世界史」と「日本史」なのだ。

なぜ「国史」と呼ばなくなったのか。なぜ我々は「国史」呼称を忘れていたのか。敗戦後に洗脳されたからだろう。

保守派や愛国者には積極的に「国史」を用いて貰いたい。

太平洋戦争

「太平洋戦争」については「歪んだ呼称」だと認識している人は多い。「太平洋戦争」という呼称は「対米」を強調し「東亜/アジア」から目をそらす意図が潜んでいる。

「太平洋戦争」呼称は「野蛮な日本は自由民主と正義の国、アメリカ様に躾けて戴いたのだ」という洗脳工作のひとつなのだ。

日米同盟

よく「日米安保」という略語で表される「日米安全保障条約」。学生による反対運動にまで及んだ、いわゆる「安保闘争」を思い浮かべる人も多いだろう。

そんな「日米安保」はいつしか「日米同盟」と呼ばれるようになる。宮沢喜一政権下で「日米同盟」呼称に対する議論があったそうだが、結果的に定着した。

岡崎久彦や田久保忠衛などは「一国での防衛は不十分」という側面を拡大解釈する。そして、強い国である「アメリカ様」の助けを借り続けることが当然であると結論するのだ。

奴らは事あるごとに「日米同盟」と言い続ける。

それはもはや「ニチベイドウメイ/ニチベードーメー」という空虚な呪文か魔法の言葉に成り下がっていることにも気付かず。

確かに同盟は必須。だが、「日米安保」は「同盟」とは言い難い。自主防衛をしない日本は米国と同盟関係であるはずがない。「米国の指揮下」というのが実態である。

「在日米軍」は主に中露へ対抗するためと言われているが「日本への攻撃」も視野に入っていることを自覚している「ニチベイドウメイ/ニチベードーメー」論者はいない。

実態とかけ離れた「日米同盟」という呼称を当たり前のように用いるのは保守派を自認する人間として恥である。ジェイソン・モーガン氏や西部邁先生のように侮蔑と否定の意味を込めて用いる以外に「日米同盟」なんてインチキワードは不要なのだ。

藤井厳喜

宮沢総理のときに「日米同盟」という言葉が出てきて、果たして「同盟」って言葉を遣うのが適切かどうかってことが大議論になったと思うんです。

その後、鈴木善幸さんのときも話題になっていたけど、その後なんとなくそういう言葉が定着しちゃって。

同盟なんてないと思いますよ。

ジェイソン・モーガン

「日米同盟」こそが核恫喝でございます。そのものです。

伊藤貫

僕の大好きな村田亮平さんの回想録から引用しますと、日米安保体制の本質の半分はアメリカによる日本の占領継続である。日米安保条約におけるアメリカの日本防衛義務はこの条約の主眼ではない。

ことに沖縄には米軍が東アジアの制海権と制空権を握るため、そして、日本本土を攻撃するために軍事基地を作ったと。

ね、村田さんは書いているわけです。これらの基地の目的は、日本の防衛にあったのではないと。そういうふうに村田さんは書いておられます。

その通りですね、もちろん。こういうことをきちんと書いてくれた村田さんに僕はすごく感謝しています。

世論

「世論」を「よろん」と読んで用いているなら要注意。

「世論(せろん)」とは民衆情緒の発露に過ぎない。「輿論(よろん)」とは別モノの言葉。「世論」と「輿論」を混同してるのなら今すぐ語義を確認すべきである。

(略)

漢書で「世(せ)論」といってみても、それは「世にはびこる論」のことで、昔の「輿論」とは異なります。輿論というのは、「社会の台(輿)にいる庶民が心中に抱く常識」のことです。

そんな土台も庶民も常識もなくなったのが現代社会です。だから、言葉の土台も失われて、人々は目前に流れる言葉に束の間だけ唱和し、それが流れ去れば、自分の意見が何であったかさえ忘れてしまうという顛末です。

(略)

言語的動物に過ぎぬ人間が、おのれの存在の根拠である言葉を軽んじ壊し忘れていくというのは、無残としか形容の為し様がありません。

可能性

日本人は繊細な感性がある。日本語は微妙な言い回しができる。であるならば「可能性」の誤用が蔓延するはずがない。

しかし、日本人のほぼ全員「可能性」という用語を適切に扱えていない。

ご多分に漏れず、保守派や愛国者もそこに含まれる。

「戦後体制からの脱却」や「反グローバリズム」と息巻いている人の中で「可能性」を適切に扱えている保守派や愛国者は一人もいない。繰り返すが本当にただの一人もいないのだ。


それどころか「日本人が殺される可能性」「日本が侵略される可能性」などと平気で言えてしまう。そんな人に繊細な感性があるのか。マスコミの言葉遣いを批判できるのか。殴りつけながら問いただしたい気分になる。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
自称保守や愛国者ですら無意識に言語感覚を狂わされている

そんな疑いを持たない人が山ほどいる惨状。

多数の日本人がデタラメな「可能性」の用い方をするならば、そちらのほうが好ましいと思うなかれ。それは「民衆政治」ではなく「衆愚政治」の一側面。

世間の悪しき言葉遣いはマスコミや大企業が助長し拡散させる。やがて「不適切な言葉遣いの変化」が正当化される。世間の怠慢がマスコミや企業に悪用され、国民は堕落の連鎖に巻き込まれる。

マスコミが刷り込んだのは「空想的平和主義」や「自虐史観」だけではない。ズサンな言葉遣いも刷り込んでいるのだ。

社会は言葉で動く。にも関わらず、保守派や愛国者は「不適切な言葉遣いの変化」を埋め込まれていることに無自覚。

「可能性の誤用」は深刻な病理の一端と言えないだろうか。

可能性の間違いからカンタンに脱する方法|可能性の誤用は無自覚な暴言である テレビ/ラジオ/新聞/ウェブサイトなどの「可能性」の用い方には首を傾げることが多い。 疑わしいことにも「可能性」危険な対象...
kotoba-heiwaboke
「言葉は生き物」という観念は平和ボケの産物である日本語の「適応」を続けてきたのは良い風習、「良習」と捉えることができる。「適応」を「現実主義」「プラグマティズム」と認識している人も少なくないだろう。ただ言語に対して「適応」「現実主義」「プラグマティズム」を突き詰めるとどうなるか。何十世代後か何百年後かはわからないが、形だけで中身はスッカラカンな日本語らしき何かになる...

真逆

「真逆」を「まさか」と読めた人は少数ではなかろうか。私も数年前に知ったばかり。なぜなら「真逆」は「まぎゃく」という新語だと思っていたからだ。

残念なことに「真逆(まぎゃく)」用法は保守派や愛国者の中で多用されている。あたかも好ましい言葉のように。




語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
「真逆(まぎゃく)」用法は誤りである以前に「下品」。
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
そんな「当たり前の感覚」がない者が今の教育は問題だなんてよく言えたものだ。
言語表現で大切なのは正誤よりもセンスである習うより慣れろという訓は、まさにプラグマティズム、実践の中にあるのだからそれで話は終わり、とするのが、あるべき大人の態度なのかも知れない。それでも私は拭い去れない。「習うより慣れろだけで良いのだろうか」と。...

日本を護りたい
日本を取り戻したい
日本文化を大切にしたい
グローバリズム反対
英語化を阻止したい
マスコミの言葉遣いを糺したい

普段こんなことを掲げている保守派や愛国者がこぞって「真逆(まぎゃく)」と発する姿。異様かつ滑稽であり、冗談抜きで目と耳を塞ぎたくなる。

「可能性の誤用」と同じく、「真逆(まぎゃく)」の侵食も酷いもので、それこそ「どいつもこいつも」平気で用いるありさま。


語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
あなた達頭イカれているのか?

と怒鳴りつけたくなる位に不快な言葉遣いが「真逆(まぎゃく)」なのだ。「真逆(まぎゃく)」を品のない不適切な表現だと感じない保守派や愛国者は、内部からジワジワと毒されていることに無自覚。

免疫力が高い時期ならその毒を制することもできる。だが、必ず免疫が下がる時期がくる。そして、言語感覚の歪みが社会を大病に至らしめるだろう。

日常会話における語義の重要性を三橋貴明氏批判から論じる 当ブログにて普段の言葉選びは大切だと主張してきた。特定の言葉や用法を題材に批判を展開しているのもその一環だ。だが、残念なことに、...
「保守派ではない」と表明する三橋貴明氏にあえて申し上げたい。言語も「保守」の対象に含めよ三橋貴明氏が「財政破綻論・自己責任論を徹底的に潰せ![三橋TV第246回]」の動画内でこんな発言をしていた。日常会話でやたら言葉に定義にこだわるやつ嫌でしょ。この率直な感覚に大抵の人は納得できるだろう。日常会話においては言葉の定義よりも、話者が述べたい意見の全体像を掴むほうが肝要だと。しかし私は、ここに合成の誤謬の...
言葉の誤りを指摘される人=〇〇に洗剤を使う人私としては「分類関係なく反発するのもやむなし」という心情が若干ある一方で「誤りは条件問わず指摘し合うのが好ましい」と考えている。つまり「一部に限定すれば反論に賛成」と思いつつも、やはり好ましい表現を提案されたならば素直に従うべきという立場。ただし「なります敬語」「させていただきます敬語」「お疲れ様」などの...

さま/様

「開かれた皇室」を悪用し、権威失墜を着々と進めている新聞社やテレビ番組。

親しみがあるという建前で皇族に「さま/様」呼称を頑ななまでに用いる姿勢は「必ず皇室という特別な階層を潰してやる」という強い信念が感じられる。

そこに見えるのは「自由平等博愛」の啓蒙思想から「階級らしき仕組みはことごとく破壊すべし」というマルクス的論理に至る、非現実な理想主義に染まった哀れな姿。

しかし、この「さま/様」を用いているのは皇室の権威失墜という強い信念を持っている人だけではない。

あろうことか皇室を護りたいという類の投稿までもが「さま/様」呼称にあふれている。Youtubeにも多くの「皇室称賛動画」がある。そのほぼ全てが「さま/様」呼称なのだから異常という他ない。

この現象には二つの捉え方がある。

1.皇室の権威失墜作戦がかなり浸透している
2.権威失墜を目論む工作員が「皇室称賛動画」を投稿している

恐らく両方だろう。

この現象の深刻なところはコメント欄にも見てとれる。誰も「さま/様」呼称を非難しない。それどころか「さま/様」呼称を平然と用いる惨状なのだ。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
「さま/様」呼称を嬉々として用いる姿は、言葉に鈍感なジャップ、ここに極まれりと言ったところか

投稿者が目の前にいたら顔面を何度も殴打して半殺しにしてやりたい気分である。

保守派や愛国者には皇族に対する好ましい敬称を率先して発信して貰いたいものだ。

オール殿下計画

テレビや新聞でさえ間違った呼び方してるとは…うむ
とにかく、「さま」をつけるのは大変失礼なんだとか

法律で決まっていて(罰則はないけど)
きちんと陛下とつけるのが正しい呼び方だそうで

天皇陛下、皇后陛下、もしくは天皇皇后両陛下
これが正しいと

そして、「ご夫妻」とつけるのも間違ってるらしく
上皇ご夫妻、なんてのはダメで

上皇上皇后両陛下(じょうこうじょうこうごうりょうへいか)
これでいいんだって
 

ご皇室/御皇室

「ご皇室/御皇室」という表現は一見して好まく感じる。実はそれが落とし穴。「皇」の前に文字をつけることは不敬なのだ。私流の解釈ではこうなる。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
皇族の頭に手前勝手にヘルメットを被せるようなもの

つまり、皇室への深い理解と敬いがあるはずの「高清水有子氏」は、あるまじき不敬を働いていることになる。何故なら頑なに「今週の御皇室」という番組名を貫いているからだ。だた、もっと深刻な問題がある。

水島総社長以下のチャンネル桜製作陣と視聴者が「御皇室」という番組名に異を唱えないこと。寧ろ、製作側と視聴者以外の方々が「御皇室」表現を懸念している。

皇室に対する敬称

皇室の記事を作るにおいて、私も「ご皇室」とする場合がありましたが、これは無礼にあたることがわかりました。皇の前に出る言葉は日本語にはないと。

皇室を御皇室と申し上げることについて

私の友人知人には尊皇の心の篤い方が多いのです。と言うより私は尊皇家ではない人とは付き合わないようにしております。私よりもずっと尊皇の心が篤い方のなかに皇室を御皇室と申し上げる(言ったり書いたりする)方が散見されます。

これは間違いであり、かえって皇室の尊さを損なうことになりかねませんのでここで一言申し上げます。御皇室と言ったり書いたりする方のお気持ちは良くわかります。尊崇して余りあるのでしょう。

でも正式には皇室に御はつけません。皇室に御をつけるのであれば皇太子に御をつけるのでしょうか。皇位に御をつけるのでしょうか。

(略)

あまりに尊崇して御をつけたくなる気持ちはわかりますしそういうお方を私は好きです。戦前はこういった皇とか勅と言った字の上は 一字分桝目を空けたものでした。これを欠字(または闕字)と言います。

さらに尊崇すると天皇とか皇室という字が来るといちいち改行したものでした。つまり常に天皇と言う字は行の一番上にくるのです。

では逆に御をつけねばならないのはどういう字でしょうか。御陵 御璽 御陪席 御親拝等です。

「皇室」を「御皇室」と申し上げるのは、逆に不敬にあたる。

皇室尊崇のおもいを持たれている方は皇室尊崇のおもいが強すぎて、思わず「御」をつけてしまうのでしょうが、それは敬語の用法の誤り(二重敬語)であり、もし、そうでないなら「皇室」を尊敬の対象としていない語と認識していることになります。

尊崇するあまり逆に不敬になってしまうので、注意すべきだと思います。

(略)

国立国語研究所なのだから、新聞マスコミと同じように「皇太后さま」「ご逝去」という言葉ではなく、「皇太后殿下」「崩御」とただすべきですが、それは本論ではないのでさておき、「逝去」を「御逝去」というようになった意識は「皇室」を「御皇室」と申し上げるようになった意識に似ているように思います。

しかし、社会の変化によって「皇室」を「御皇室」という新しい表現で定着させてしまって果たしてよいものでしょうか?私は断固としてこの表現を認めたくありません。皇室尊崇のおもいをもっているからこそ、「御皇室」と申し上げてはならないと考えます。


 

内部からの指摘があるとすれば次の番組くらいだ。

【我那覇真子「おおきなわ」#103】小堀桂一郎氏に聞く日本国民としての基礎知識~皇室と國體、そして憲法との関わりについて[桜R1/1/17]

我那覇真子
私、去年初めて恥ずかしながら知ったんですが皇室を御皇室と言ってはいけないと…

小堀桂一郎
皇室の『皇』に十分敬意がこもっておりましてね、そこに「御」を付けると二重になってしまうんですよね。皇室の前に『御』を付けるのは余計。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
私は数え切れない程、この番組名の訂正を求めた。
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
残念なことに訂正を求めるメールやコメントを繰り返しても「御皇室」は「皇室」に修正されない。
語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
高清水氏に直接メッセージを送っても無反応。

【随時更新】管理人の活動実績
皇室への言葉遣い(例:御皇室/皇族の「さま」呼称/皇族の「夫妻」呼称)

【随時更新】管理人の活動実績大手新聞社やテレビ局といった企業、個人ブログ、まとめブログなどへ意見を届けた。しかし、その殆どが提案を受け入れることなく現在も活動している。「可能性」の誤用に関しては惨敗だ。よって「実績」とは言い難い。私が不適切と感じる表現はこの他に多数ある。随時更新していくつもりだ。...
名称 日本文化チャンネル桜
年月 提案年月失念
不適切な文言 今週の御皇室
提案 皇室の前に「御」を付けるのは不敬
今週の皇室
対応 全く改善せず。
備考 数え切れないほどチャンネル桜へメールし、番組担当者の高清水有子氏にも個別にメッセージを送った。しかし、全く改善する様子はない。これで何故保守を自称しているのか疑問である。

 

こんな人間が「皇室を護りたい」「男系男子絶対護持」と掲げる。そして「御皇室」表記をやめろという声もない。よって「日本人の言語感覚や思考力は既にかなり歪んでいる」と捉えるべきだろう。国民に「ご皇室/御皇室」という表現が最上級の敬いなのだと誤認させかねない高清水氏は罪深い。

あなたがもし、真っ当な保守派や愛国者を自負するなら、くれぐれも「ご皇室/御皇室」とは発しないことを望む。

ご冥福

「ご冥福」は悩ましい言葉である。

死に関わる表現は無難な定型が好ましい。だから「ご冥福」というわけだ。ところがその無難は思考停止に陥る。

明らかにキリスト教徒の米国人だとわかる相手に「ご冥福」と発している日本人が大量にいることからも思考停止がうかがえる。

遺族は「ご冥福」でも受け入れてくれるだろう。しかし、その厚意に甘える日本人の態度が気に食わない。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
おい、ジャップ共!イスラム教徒のイラク人にも「ご冥福」と言うのかよ!

と詰め寄りたくなる。

日本人相手になると「ご冥福」という思考停止が目立たなくなるのも困りもの。宗派や信仰の有無なんておかまいなしに「ご冥福」「ご冥福」と発する。アホにしか見えない。

宗派や信仰の有無がわからないなら次の三つの定型文を用いるべき。それすらできないなら保守派や愛国者と言えない。


お悔やみ
哀悼の意
哀悼の誠

新型コロナウイルス/COVID-19

まずは佐藤健志氏の意見をご覧いただきたい。

53:03~

佐藤健志
「武漢肺炎」と呼べとか「中国肺炎」と呼べとか言う人がいるわけですが、呼んだら何なんだ、名前変えたらウイルスの感染症収束起きるのか。

それも現実逃避の一形態、妄想の一形態ですので「断固COVID-19」と言います。

この意見に対するコメント

ken hojo
ken hojo
「武漢肺炎」「中国肺炎」呼びに拘る人は、表向きは「新型コロナは中国発祥とは限らない」と言明した中国共産党への対抗措置だというが、本音は、日本国内の感染拡大も全部中国の責任とすることで、春節ウェルカムしていた安倍首相に責任が及ぶのを防ぎたい心情の表われではないか。

 

上記を踏まえた上で、にわかに騒ぎになっている「エボラ出血熱(エボラウイルス)」研究施設問題について考えてみよう。

地域名を避ける方針なら当然「エボラ出血熱(エボラウイルス)」は問題視されるべきだ。だが、そんな声は全く聞こえてこない。

地名が侮蔑意識を誘発すると言うのなら、呼称にまつわる「武漢」と「エボラ」二者の違いはどこにあるのか。シナは保護される一方、コンゴは侮蔑されても構わないという理屈も成り立つ。

マールブルグ熱(マールブルグウイルス)についてはどうか。

マールブルグと聞けば「コーエン」や「カッシーラ」を想起するする人も少なくないだろう。無論「カント」の名前も出てくるはず。

「武漢ウイルス/チャイナウイルス」よりも「新型コロナウイルス/COVID-19」が適切という流れに従うならば、マールブルグ熱(マールブルグウイルス)が「マールブルク学派」、ひいてはドイツを貶めているということになる。

何のことはない。「新型コロナウイルス/COVID-19」呼称は「空気の支配」そのものなのだ。

「断固、武漢ウイルス/チャイナウイルスと呼べ」とまでは言わない。ただ、保守派や愛国者は「新型コロナウイルスが常用されている状況は歪んでいる」と心のどこかに留めておいて欲しい。

ついでに言えば「フェンタニル」は「チャイナホワイト」と呼ぶべき。

フェンタニルではなくチャイナホワイトと呼ぶべき
ちゃんとチャイナの名前を入れるべき

保守派や愛国者を自負するなら極端な表現には注意すべし。例えば「神~」という表現。

自虐史観、空想的平和主義、外国人優遇などに異を唱える姿を「神演説」や「神対応」や「神回」と煽り立てるのは非常にブザマである。詐欺まがいの商売人の手口と同じだからだ。

「神~」「最強」「~すぎる」などの極端な言葉遣いの裏には注目を集めたいという軽薄さがあると気付けない。実はこの軽薄さこそ保守の本質に関わる根深い問題なのだ。

あなたが真の保守派や愛国者でいたいなら「煽り文句が日常化している状況」こそ異常であり、日本人が堕落した大きな一因だと自覚して貰いたい。

「神~」を常用する奴はスピークオナニストである「神~」をやたら遣う奴らを見ていてつくづく思う。「オナニー/自慰」だなと。「神回」「神曲」「神対応」などと発言することで、脳内から快感物質でも出ているのだろう。「神」でオナニーをしているというわけだ。これぞまさに「神オナニー」。ところ構わず「神~」を連呼し自慰に耽り絶頂する。これでは猿と大差ない。「神オナニー猿」とでも言っておこう。...
「最強」を掲げるのは不安の現れ結局のところ「最強」を掲げるのは、アクセスアップや収益アップという個人的かつ利己的な目的なのだろう。まことに陳腐である。...
殺害予告が犯罪ではなくなる日|言葉は時代の気分で変化するという観念の落とし穴現代の日本において、下記の発言を表明することは犯罪行為とみなされる。竹中平蔵、売国奴のお前をいつか必ず殺してやる 国賊堀江貴文をブチ殺す では、次の表現は犯罪か否か。あなたに考えてほしい。あなたは「犯罪的発言ではない」と答えるだろう。あなただけではなく多数の日本人もそう答えるはずだ。...

我々は無意識に「言葉遣いを刷り込まれている」

保守派や愛国者はよく次のような主張をする。

日本を護りたい
日本を取り戻したい
日本文化を大切にしたい
グローバリズム反対
英語化を阻止したい
マスコミの言葉遣いを糺したい

ところが、そんな人達の言葉遣いに疑問を抱くことが多い。

「太平洋戦争」という表現に強く反発する。一方で「よろん」「日本史」などには無頓着。保守派や愛国者を自負するにしては言葉遣いへの注意が不十分だと感じる。

枝葉が毒されていれば良い土にならない

言葉遣いについて問題視すると必ずこのような反論がくる。

枝葉ばかり指摘していると本質を掴めない
意図を汲み取るほうが重要

それは私も同意する。万人がいつでも気軽に発言できる環境は「意図を汲み取るほうが重要」という「世論(せろん)」を優位にするからだ。

だが、立ち止まって考えて欲しい。本来、発言とは無闇にするものではない。慎重に言葉を選んだ末に発するもの。故に全ての言葉を意識するのが有るべき姿。

万人がいつでも気軽に発言できる環境が言語感覚を狂わせていると私は見ている。全ての言葉を意識できない声は「世論(せろん)」に過ぎず「輿論(よろん)」には程遠いのだ。

枝葉という比喩になぞらえるなら、こんな視点もある。

語求(ごきゅう)
語求(ごきゅう)
毒された枝葉や果実はゆっくりではあるが確実に土を汚す

汚れた土からは健康な草木が育つだろうか。そもそも草木が生えてくるだろうか。そう考えると「枝葉」に無関心ではいられない。

「世論(せろん)」に選挙の立候補者や政治家は準じる。民衆政治をしているのだから当然だ。言語感覚を狂わせている環境下での民衆政治はいつか汚染される。

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語求(ごきゅう)
【反日憂国者】 開国後の日本にとって言語は重要な防壁になりました。それに気付かない日本人に向け、国防の観点から「鋭敏な言語感覚」の重要性を訴えています。言葉の変化を手放しで受け入れる人達へ。あなた達「言葉の変化全肯定論者」が如何に軽薄で危険であるかを独自の視点で暴き出します。その活動が、日本を少しでも延命させる一助になると信じて。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人へ。あなたの言語感覚は間違っていない。そんな奴らに屈するな。国防に必要なのは核武装と言語の保守。アイコンはユルいが50代の筋トレおじさん。
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