表現で重視すべきは正誤よりもセンスという話をしよう。
当ブログでは言語感覚をよく持ち出す。感覚とはセンスのこと。ファッションセンスなんて言ったりするが、それと同じイメージだ。
センスアップの方法も書いているので、よろしければ目を通していただきたい。
習うより慣れろだけで良いのだろうか
習うより慣れろ。
よくこう言われる。そして我々は母国語に対して無自覚にそれを行っている。
しかし、それなりに人生を歩んできて思う。「習うより慣れろ」という向き合い方で良いのだろうか。
私のような思いを浮かべることなく一生終える者もいる。恐らく、習うより慣れろという実践さえできれば生きていく上で不足がないのだ。
習うより慣れろという訓は、まさにプラグマティズム、実践の中にあるのだからそれで話は終わり、とするのが、あるべき大人の態度なのかも知れない。
それでも私は拭い去れない。「習うより慣れろだけで良いのだろうか」と。
疑問の発端
冒頭でそれなりに人生を歩んできたと書いたが「この時代の日本で」という前提を付しておかなければならない。
何故なら「この時代の日本で」という状況が「習うより慣れろだけで良いのだろうか」と自問する大元であると感じたからだ。
「この時代の日本」と言われても漠然としてよくわからんとお考えの人は冴えている。そう、漠然としていて、個々に違う。
コンテンツ天国?無慈悲な地獄?
「この時代の日本」をIT環境が充実したコンテンツ天国だと見る人もいるだろうし、厳しい労働条件を余儀なくされる無慈悲な地獄だと見る人もいるだろう。
では私見ではどうなのか。
独立を果たしていない属国状態
これが私から見た「この時代の日本」である。
あなたもご存知の通り、昭和二十七年(1952年)日本は主権を回復した。しかし、実際は占領下との違いを探すほうが難しい状況が令和になっても続いている。
コンテンツ天国、または無慈悲な地獄、この対極する認識は「未だに米国に隷属している」という状況が根源になっているため、どちらが正確に現代日本を描写しているのかという議論は不毛なのだ。
習ってもどうにもならない
前置きが長くなったが、本題である「習うより慣れろだけで良いのだろうか」と問について私の見解を述べていこう。
現時点における私の見解は「習ってもどうにもならない」というものである。
「お前は慣れろだけで良いのか」と言われそうだが、それは違う。習うこと、つまり日本語を学習することは必須。基本として修めるべきと言うべきだろうか。これは基本を修めてこなかった私の率直な意見だ。
ただ「習ってもどうにもならない」という部分がどうしても出てきてしまうのだ。言わば「学習からこぼれ落ちるもの」。この「学習からこぼれ落ちるもの」こそセンス=感覚の領域である。
実のところ、くまなく学習するとこぼれ落ちるものは減るだろう。つまり、学習にはセンスを磨く領域も含まれているというわけだ。
とはいえ、私のようにロクに学習してこなかった者も少なくない。それは「習うより慣れろ」で事足りているという体(てい)で、学習を軽んじているからではないだろうか。
今の日本人であるならば、書道を習わなくても一応字は書ける。その字の書き順を間違っていても少し汚くとも他者は判別してくれる。故に「学習はそこそこで構わない」とおぼろげに考えるのは当然というもの。
そもそも「習うより慣れろ」という前提がなければ、全ての学習が成り立たない。慣れない外国語で授業されてもチンプンカンプンになるのが関の山である。
センスを磨く方法
もし、あなたがセンスを磨きたいというならば方法はある。確実とは言えないが。
センスを磨く方法とは手前味噌だが「このブログを見ること」。決して私にセンスがあるからではなく、意識付けができるという理由からだ。
だが、それではあまりにも無責任なので「コツ」をお伝えしよう。
その「コツ」とは「正/誤」より「適切/不適切」に注目することである。
「正/誤」と「適切/不適切」の違い
「正/誤」より「適切/不適切」かに注目することがセンスを磨く「コツ」だと言われても、まだチンプンカンプだと思う。
そこで例を出そう。
など。
この「アレ?」「そもそも」という感覚こそ「適切/不適切」かの判断基準になる。「アレ?」というのはセンサーが反応している状態。その反応が「センスを磨く」きっかけになるのだ。
「アレ?」と思ったところですかさずインターネットで検索してみられたい。するとこんな書き込みやサイトにたどり着くはずだ。
気分でコロコロ表現が変わる言語空間でセンスを磨くのは難しい
センスについて例を出したが、あなたはどう思っただろうか。
初めて気付いた!
いやいや、定着している表現こそ正義だ!
抱いた思いは様々だろう。ただこれだけは言える。
気分でコロコロ表現が変わる言語空間でセンスを磨くのは難しい
それどころか「麻痺させられセンスを損なう」ことになりかねない。
服のトレンドの移り変わりとセンス
少し話はそれるが、服のトレンドを見ていれば、センスなるものがいかに不安定になりやすいか実感できると思う。
当記事執筆時点での服のトレンドはこういうものだ。
少し前までは「スキニー」だらけだったのが、いつしか「スキニーダサい。これからはワイドパンツやビックシルエットだ」といった風潮。
トレンドは今のスタイリングに「飽きる」ことによってシルエットやボリームバランスがグルグル回っているだけだ。そんな情緒的な運動に呆れ果てている私からすればバカバカしいとしか思わない。それがかつて「モード」に熱中したバカである私の本音。
私はもう干場義雅氏の提案するスタイルで十分だ。干場氏のスタイリングは「FORZA STYLE」や「B.R.ONLINE」で見られる。
ただし「FORZA STYLE」のような服飾サイトの文章は最悪レベルにセンスがないのでご注意を。
干場義雅氏よりも更にクラシカルな服選び、普遍的で地に足の付いた着こなしを求めるなら赤峰幸生氏がオススメだ。
「FORZA STYLE」のYou Tubeチャンネル内で赤峰幸生氏の高度なスタイリングの一端を観ることができる。
「重言」と「ら抜き」への反応は端的にセンスの違いが出る
センスをはかる端的な基準がある。それは「重言」と「ら抜き」に対する捉え方だ。
「重言」とは「~感を感じる」や「旅行に行く」といった表現。意味や文字が重なり稚拙で無粋な表現になることだ。
文字が重なっていても「銀行に行く」や「演歌歌手」などは重言ではない。
「旅行に行く」という表現は間違いではない。だが、野暮で稚拙だ。私がセンスを大切にしたいのは、正誤では重言の良し悪しを判断できないからである。
「旅行に行く」と「銀行に行く」の違いがわかる人はセンスがよろしい。
「旅行に行く」は「旅行する」や「旅に出る」に変えたほうがセンスが良い。他方「銀行に行くは」変えようがない。
重言に関してこんなことを主張している人がいた。
その人からすれば「~感を感じる」と書く不合理も味だと言うわけだ。
言語全体として見た場合、不合理も趣になるだろう。しかし、重言にその考えを当てはめるのはお粗末なセンスだ。
重言とは「ムダ毛」のようなものだと私は解釈している。「~感を感じる」という表現は言語上の「鼻毛」みたいなもの。
重言に関する記事はこちらから。


無駄を許す一方で「ら抜き」を積極的に用いるという人もいると思うが、おかしな話だ。
何がおかしな話なのか。それは「ら抜き」肯定者が主張する二点の根拠から見えてくる。
文字の省略
可能、受身、尊敬を判別しやすい
つまり「合理」が「ら抜き」肯定者の根拠なのだ。「重言」で不合理を野放しにしておいて「ら抜き」で合理を図る。チグハグではあるまいか。
私は「らを入れる」ひと手間が筋の通った文章を成り立たせていると考えている。「ら入れ」とは言わば「清潔感」なのだ。
しっかりとアイロンがけされたシワのないワイシャツのごとき清潔感こそ「ら入れ」に込められた本質である。
「らを入れる」ひと手間がセンスを分けるという視点を持つと、表現の捉え方が面白くなるので試していただきたい。