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不快な表現

「草」と書く度アホになる|コメント欄に繁殖する目障りな「草」|日本の言語空間には大量の除草剤が必要

とりわけインターネット上の言語空間で頻繁に目にする「草」という表現について語る。

「草」は意見にあらず

「草」と書いているのを見てあなたはどう思うだろうか。

笑ったことを意味している

なんて答える人がいるかも知れないが、実は全く意味を内包していない。その言語空間に参加している証を残したいだけなのだ。

参加している痕跡として、とりあえず「草」と書いているに過ぎない。

最初は勿論「笑う」「笑った」のような意味合いが含まれていただろうが、目新しい言葉に飛びつくアホバカマヌケ共の手に渡ると、意味なんてものは即座に揮発してしまう。

あらゆる場所で「~は草」だの「~で草」だのと書いている奴らは、意見を言語化して表現する作業をサボる怠け者であるが故に、己の頭から意見そのものが揮発していることにすら気付かない。

「どうでもいい」というコメントも「草」に近いものがある。「どうでもいい」ならコメントする必要はない。にも関わらず「どうでもいい」書いてしまうのはまさに「参加している痕跡」であり、それ自体が目的なのだ。

意見や思考なんてあろうはずがない。

「除草剤」で根絶やしにしたくなる

言語空間における「草」は所構わず繁殖し群生し場を荒らす。まさに「草ボウボウ」であり「雑草」そのものなのだ。

昭和天皇はこうおっしゃられた。

昭和天皇
昭和天皇
雑草という草はない

なんと慈愛に溢れた言葉だろう。

しかし、今や言語空間に生い茂っているのは、紛うことなき「雑草」である。「草」と書くような奴らは「慈愛」ではなく「自愛」しかない。故にまさしく「雑草」と呼ぶべきものなのだ。

これだけ至るところで「草」が繁殖しているのを目にすると「除草剤」で一気に枯らしてしまいたくなる。

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語求(ごきゅう)
国防の観点から「鋭敏な言語感覚」の重要性を訴える。「言葉の変化全肯定論者」の軽薄さと危険性を独自の視点で暴き出す。「言葉は生き物」「言葉に寛容になれ」と心無い批判をされた人よ。あなたの言語感覚は間違っていない。そんな奴らに屈するな。国防に必要なのは核武装と言語の保守だ。アイコンはユルいが50代の筋トレおじさん。
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草という言葉はギャルの言うまじうけるーと同じだと思っている。クスッと笑ったことを真顔で打ち込んだり喋って表現する点が似ている。オタク的な気風を重んじるならばこういったヤンキー的な文化の援用は慎むべきかも知れない。私自身は草をよく使う側の人間なのでこうかもしれないなと思った。いじめが発生する空気を感じる肌感覚がある。あまり好きでは無いから使ってほしくないが、宮台真司の言う言葉の自動機械を連想する。

エモいの第一印象はそんな微細な感覚をひとまとめにするのか、細やかな感覚は細やかな言葉遣いで表現するものではないのか?だった。

普通に美味しいという言葉は日本語としておかしい以前に、失礼な意味を内包しているのではないかと思った。たくさんあるbランクの料理の中の一つという解釈をしたので。単に美味しかったです、良かったです。こっちはまだ失礼な要素がない分良いと。

言語を国家の基盤として重視するこのブログに対して抱いた感想は三島由紀夫の文化防衛論のような話だなと。核武装を主張し、彼は戦前の言葉で文章を書いていた。古典を現代語訳にしてはいけないと。その割には三島由紀夫に言及した記事は見つけられなかった。美を倫理的に判断するのでなく、倫理を美的に判断する。そういえば彼はボディービルをやっていた。そこもこのブログに感じた共通点の一つ。

私の解釈では彼はまず文化を国民の下に通底する傷つけてはいけないものと捉えた。それは国体そのものである。右翼的に見えるのは彼が共産主義やアメリカのもたらした民主主義を西洋近代文明の政治勢力による文化侵略、いや文化破壊と捉えたからで、彼にとっては自民党も共産党も同じ侵略者。現代仮名遣いが代表でしょうか。

そして彼が爽やかに見えるのは生きること=エゴイズム=政治にこだわらず特攻を日本文化勢力による唯一の攻撃手段として扱ったから。彼は政治そのものに敵対したわけで、文化人、文化思想家?とは言えても政治家、政治思想家とは言えないのでは。文化対政治。

保守派が天皇を保護する護憲を掲げると、必ず一つの欺瞞に思い当たる。それは結局、外国の軍隊に侵略されたら天皇は保護されないということ。言論によって言論は守れない。だがただ生き延びるのはエゴイズムに繋がり、倫理を美的に判断して、美しくない。美しい文化を守るどころかエゴイズムによって破壊している。偽善になる。だから特攻、捨て身の攻撃になる。数の暴力に対し一人でも立ち向かう暗殺は、暴力ではない。言論だ。それを沢山の人間が寄ってたかって嘲笑うことが暴力なのだ。だから捨て身を伴わない文化はだらしないし、ただ一方的な武力で自分を守ることは、美しくない。菊と刀の原理。

自衛隊は天皇の軍隊で無ければならない。これはどういう意味か。つまり自民党というアメリカ政府の手先から日本国民へ軍隊を取り戻せということ。自衛隊二分論とは何か。天皇の軍隊で地上軍を構成し、政治の軍隊が持つ海空軍戦力を首根っこから抑えるということ。左翼的な言い回しだからこれを私以外が書いたら気に障る文章。私は左派が三島由紀夫を取り上げて政府を批判するのがあまり好きではない。彼らも西洋政治勢力の手先でしかなく、侵略者でしかないように映るから。共倒れになって欲しいものだ。私見だが、保守派なら自民党と共産党、アメリカと中国とロシアの共倒れを望むはずだ。

日本人に通底する美しい文化、その中心点に天皇、死の象徴のようなものがいる。なんのために死ぬのか。それは天皇のためであろう。文化概念としての天皇。文化対政治、死者対生者、消費対生産(バタイユ)の戦いと言えるかもしれない。日本において真の革命というものは天皇を中心とした極端な保守の形でしか現れない。それは外来の思想から起きる革命は必ず侵略の性質を帯び、自主的な革命とは言えなくなるからである。

いわゆるポリティカルコネクトレスという物の問題は、倫理を美的に判断するのではなく、美を倫理的に判断する、政治による文化の包囲(水族館や動物園のような)であり、文化大革命のような政治の全体主義による弾圧はこうなる。そして本来は、倫理を美的に判断する、文化による政治の包囲(島や村のような)という、文化の全体主義でないといけない。まるごとの容認。それは言論の自由であり、その秩序は政治権力による統制ではなく、自己犠牲によってでしか保たれない。究極的には、そのために死んでもよいという心。

警察は政体を守り、軍隊は国体を守る。自衛隊の治安出動という政治勢力による自衛隊の私物化という矛盾に自衛隊は耐えられず、クーデターを起こす。

日本の歴史を始まりから今まで縦貫する人間は日本語、日本文化、その空間的、時間的連続性の象徴である天皇しかいない。この文化を発信、継承していく文化の主体性たる天皇を自己犠牲によって守り、内側を緊張させ秩序を作る。これが菊と刀の原理である。

私見 ある種の民主主義で、全国民に通底する文化をその日本文化の中心点、天皇に対する自己犠牲により政治勢力から防衛する。なんのために死ぬのか、その為の存在が必要。それが天皇なのではないか。

私の今の所の解釈です。エクスキューズをいれるのはダサいですかね。

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