立花孝志氏襲撃は本来の政治を思い出すきっかけ
立花孝志氏が襲撃されたらしい。
今の私はロクにニュースを観ない。観る気もあまりない。よって詳細は知らない。ただ、立花氏には申し訳ないが、こういった出来そのものが問題ではないと私は考える。
政治に関わるというのは本来的に命の危険と隣合わせであることを思い出す一例として捉えるべき。
暴力沙汰が当然であると認識しない日本国民に問題があるというのが私の見解。
民主主義のプロセスに則る(のっとる)という呪縛
よく社会問題絡みで暴力沙汰が起こると、こんなことを言う人がいる。
確かにそれは正しい。
しかし、その正しさがいつしか呪縛になる。その呪縛は「政治は命がけ」という避けがたい暗部から目を逸らしてしまう。
私が思うに「民主主義こそ暴力に裏打ちされるべき」なのだ。
今の日本は「内乱」一歩手前
在日朝鮮人は暴力で権利とカネを勝ち取った。
なぜ勝ち取れたのか。それは、日本側が暴力で完全に鎮圧しなかったからだ。その結果どうなったか。日本国民が在日朝鮮人の圧力に従わなければならなくなった。
政府が暴力を行使しないせいで「民主」だ「差別」だ「人権」だと訴える輩に屈したのだ。在日朝鮮人はまさに「暴力に裏打ちされた民主主義」の実践者。
桜井誠氏は不甲斐ない民主主義への反発
暴力で権利とカネを勝ち取った在日朝鮮人たちに果敢に立ち向かった男がいる。
そう、桜井誠氏。
桜井氏の活動は「暴力に裏打ちされた民主主義」であり、本来あるべき姿。桜井氏の言動が過激に見えるのは「日本人がフヌケ」だからだ。
チャンネル桜の水島聡社長は桜井氏をこう批判した。
水島社長の意見はごもっとも。
だが、水島社長は忘れている。
しかし肝心なときに政府の暴力行使は不十分だった
その結果、日本国民が暴力を使わざるを得なくなった
仮に政府が、在日朝鮮人を皆殺しにするくらいの勢いで鎮圧していたら「活動家・桜井誠」は存在しなかっただろう。
国民が危険をおかして活動する必要はなかったということだ。
だが「日本国民が暴力を使わざるを得なくなった」と自覚している人がどれだけいるだろう。
自覚せよ日本人。今の日本は「内乱」一歩手前なのだ。
日本国民は「桜井誠」になれ
すでに内乱直前なのだから避けることは難しい。
こんな状況に至ったのも「民主主義のプロセスに則るという呪縛」のせいなのだ。もうこうなれば、日本国民が「第二第三の桜井誠」になるしかない。
空想的平和主義者との感情的類似点
空想的平和主義者はよくこんなことを言う。
この言説には次の感情が潜んでいることにお気付きだろうか。
すぐ戦争したがるヤツは目先の感情でしか動かない
賢い我々はそんなヤツらとは違う
空想的平和主義者は「非暴力=賢い」という公式を信じているのだ。
実のところ、この言説に潜む感情はもっと卑しい。
バカと思われたくない
暴力はバカが使うもの
「日本人は暴力的な民族ではない」「非暴力=賢い」
前者は「保守・右派」と呼ばれ、後者は「革新・左派」と呼ばれる。
同じにしか観えないと思った人もいるだろう。私もその一人。
核武装論者の水島社長ですら、ヘタをすれば空想的平和主義者に陥りかねないのだ。
水島社長は「脈略なく皇室を持ち出すロマンチスト」である分、桜井氏よりも不安定と言える。
安倍晋三氏は在任中に命を落とすべきだった
死者を冒涜するようで申し訳ないが、安倍晋三氏の死について私見を述べたい。
襲撃され命を落とした安倍晋三氏を高く評価する向きがある。
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こういう理屈なのだろう。否定はしない。
だが、なぜ在任中ではなったのか大きな疑問が残る。
要は在任中に「他国に命を狙われる」ほどの仕事をしていなかったのだ。もっと言えば「他国に有利な政策をした」のだ。
いわゆる保守派は反発するかも知れない。確かに「中韓」には対抗姿勢をとった。
だが、それとて「ポーズ」であって、実際は「中韓」に有利な仕事をしたというのが実態だろう。
権力を行使できる在任中は「他国に有利な政策」をしておいて、一線を退いてから自主権を取り戻すために頑張られても、国民は困る。
安倍氏はさぞかし無念だっただろうが、命を落とすなら総理大臣を担っていた時期であるべきと私は言いたい。
「政治は命がけ」なのだから。
総理大臣が「核武装という暴力」を持つことから目を逸らし続けた結果、更に日本侵略が進んだのだ。
死と隣り合わせの状況でこそ「哲学」は育まれ「日本とは何か」を再認識できる
事態は国民が内乱に臨まなければならないところまで来ている。
私はこの事態を目の当たりにして二つの相反する想いを抱いている。
1.国民は民主主義をナメていたことに気付くのが遅すぎた
2.いよいよ「暴力」を媒介とした「哲学」に再び目覚める時代が来た
1.は平和ボケのツケを今さら嘆いても遅いよということ。
2.は身の危険を感じる時代こそ「哲学」が洗練され「日本とは何か」「国体とは何か」を再認識できるということ。
無論、しょっちゅう殴り合いや殺し合いをしていたら、いつまで経っても建設的な方針が定まらない。だからこその「民主主義」「議院内閣制」なのだがよく考えて欲しい。
「日本とは何か」「国家とは何か」がわからない国民が選ぶ候補者や政治家は侵略を受け入れることしかできない。
鎌倉仏教の背景を思い出せ
鎌倉時代の仏教は思想を極限まで追求した。
比較するつもりは毛頭ないが、宗教観/哲学/思想において他国に全く引けを取らない。ともすれば凌駕している。
その背景には「死」があった。
死を目の当たりにする
このような状況下でこそ「哲学」は育まれるのだ。
近年では「ロシア」がそれにあたる。
共産主義の悪夢に翻弄され、グローバリストから収奪され、米国から侵略を受け、ロシアは「死」に直面した。
プーチンは「哲学書」を部下や学生に勧め「ロシアとは何か」を議論する契機を作った。そしてロシア正教の信者が激増したのだ。
国民が「ロシアとは何か」「国家とは何か」という問いの答えを見つけたからである。
言論に暴力を込めよ
民主主義のプロセスに従って意見を通すべきだ
暴力に訴えるのではなく言論で戦え
私も上記に賛成する。そこに付け加えるとするならばこうだ。
私があえて暴力的な文言を用いているのは、その前提があるからだ。
堀江貴文や竹中平蔵を処刑しよう
財務省の職員を見せしめに殺すのも手段の一つ
米国ジャパンハンドラーの首をはねてやれ
核武装してワシントンD.C.にブチ込んでやれ
このような過激な表現をするのは「気概」を忘れないためである。
これくらいの気持ちを内に秘めた上で挑まなければ、欠陥だらけの制度である民主主義は成り立たない。
テロでしか世の中は動かない
お前はテロリストかと言われるかも知れない。
テロとは「恐怖」「不法な暴力」など、物騒な意味を持つ言葉。
しかし、悲しいかな、明治維新はテロであり、米国独立もテロであり、フランス革命もテロであり、台湾独立運動もテロである。
米国独立やフランス革命には否定的だが「不法な暴力」に頼り「恐怖」を流布する他に手段がないことも歴史的事実として理解すべきなのだ。
西部邁先生は常に「テロル」の重要性を語っていた。
それに対し、ゴミクズアメポチ田久保忠衛は「民主主義でそんなことは許されない」とほざいていた。
西部先生は「テロ」の精神がなければ、空想的平和主義や日米ドーメー礼賛論に堕するぞ「気概」を忘れるなと言いたかっただけなのだ。
ついに田久保忠衛はくたばったが、こいつを早くブチ殺しておいたほうが日本のためになったと強く思う。
世間では美味しそうな食事を投稿して「飯テロ」なんて言っている。こんなマヌケな人間ばかりの日本でテロ行為ができるとは考えにくい。
そんな日本が内乱になって、真っ先に殺られるのは言葉の意味すら無視して「飯テロ」「飯テロ」と喜んでいるバカ日本人だ。
「写メ撮って」「飯テロ」「意外と」おかしな言葉だらけ
テロの定義