この言葉に関しては記事を複数に別けて論じることにする。当記事はその一つ目。
「老害」とは何か
まず「老害」について確認しておかねばなるまい。
「老害」の定義
社会や各分野にとって害をなす高齢者のこと
本質を追求する意欲をなくした高齢者(後述)
何歳から高齢者なのか
高齢者:65歳以上
前期高齢者:65~74歳
後期高齢者:75歳以上
「老害」と呼ばれる年齢
具体的な年齢はないだろうが、社会全体のイメージとしては還暦、つまり60歳以降が概ね該当する。分野によっては30代でも老害と言われかねない。
「老害」に込められた期待と落胆
この言葉をよく見て欲しい。何故「老」という字を入れたのか。
害をなす者を揶揄するならば、例えば「害人」「害者」という造語でも表現できるはず。しかし、圧倒的に「老害」を用いている人が多い。
推察すると、年配者は自分よりも優れた知見を持っていて欲しいという願望の裏返しではないだろうか。
「老い」というのは肉体と脳機能の衰え。だが、それと引き換えに「経験値」が上がる。自分より年上の人に期待するのは、この「経験値からくる未知の視点や知恵」である。
ところが「老人」ならではの未知の視点や知恵が得られない。それどころか、甚だしく的外れなことしか言わず頑なに修正しない。歳を重ねるごとに頑なさが増幅される姿。それを目の当たりにした若者が「老害」という想念を抱くのは当然だろう。
「老害」の判定基準
では「老害」をどう判定するのか。人名を挙げるとイメージしやすい。
老害:張本勲
老害「ではない」:道場六三郎/ポール・フレール/宍戸駿太郎/赤峰幸生
この違いはどこからくるのか。
これが私なりに考えた違い。以降で具体的に述べよう。
張本勲氏が老害「である」理由
元野球選手の張本勲氏はよく「走り込め」と言う。下半身の筋力強化に最適というのが根拠らしい。
ところがそれは大間違い。走り込みは下半身の筋力強化に役立たない。ともすれば「筋力低下」し、逆効果に成りかねない。それは私ですら知っている常識。
その常識とは「三原理五原則」。
目的が高齢者の生活水準の安定であろうがボディビルディングであろうが、この原理原則は共通。スポーツ技能向上も例外ではない。
「三原理五原則」という常識を持っている人は張本氏に対し「認識が古い」「考えが古い」と批判する。しかし、その批判も正確ではない。
要点は「認識/考えの古さ」ではなく「経験則と本質がズレていた」「勘が本質ではなかった」こと。
新旧の問題にあらず。
経験則が研究で否定された頃には張本氏は引退。現役時代に試すことは出来なかった。それもあって「筋力向上させたければ走り込め」という経験則が固定化されてしまった。
意外にもイチローよりも余程まともだが
「筋力向上は重要」と考える張本氏はイチローよりも余程まともだ。
イチローの経験則は「筋力が上がるとスイングスピードが下がった」というもの。「ライオンは筋トレしない」という例示も付け加えている。実に軽率な発言だが、イチローの経験則を肯定する風潮が意外に多い。私は驚きを隠せなかった。
話を張本氏に戻せば「筋力向上させたければ走り込め」という部分のみ間違っているのである。そして、間違った部分を本質だと誤認しているが故に「老害」なのだ。ついでに言うと張本氏は「空想的平和主義者」。
「老害」とは、本質を追求する意欲をなくした高齢者と言える。
張本氏の走り込み論は「重いバットで素振りする」という方法よりもマシ。打撃力を上げるために「重いバットで素振り」するのは明らかな間違いであり、下半身の筋力に注目する張本氏ほうがまとも。バットにウエイトを着けるのも同様。
福田恆存やアレクシ(アレクシス)・ド・トクヴィルのように若年で「本質」を掴んだ人もいるが、それは天才のなせる技。
プラトンとダイエットダンス
道場六三郎氏が老害「ではない」理由
道場六三郎氏を知ったのは恥ずかしながら「料理の鉄人」という娯楽番組。あの頃は和食の域を超えた斬新な料理人という印象だった。渋い佇まいも好きだった。
時は流れ2020年代。道場氏のyoutubeチャンネルを見て感じたこと。「基礎」を若い頃に徹底的に叩き込まれ「和食の本質」を会得した人。
曰く「要領が良かった」「先輩に殴られたことは一度もない」「よく可愛がられた」とのこと。
とにかく「和食のいろは」を脅威の速度で習得したようだ。「料理の鉄人」で目にした斬新な組み合わせも「和食の本質」があればこそなのだとしみじみ感じた。
「本質」を捉えているから、最新の器具や調味料の是非も見極められる。故に新旧を問わず活用することができる。
「最新が最良/最適」という気分が支配的なのは料理界隈だけではない。「本質」をしばしば見失わせるのは「最新」。それに気付くのは死ぬ直前ということも有り得る。
ポール・フレール氏が老害「ではない」理由
ベルギー人
幼少期から自動車に触れる
2輪及び4輪レースにて勝歴多数
モータージャーナリストとして各雑誌に寄稿
公平な自動車評論ができないという理由でジャガーベルギー店の営業職を辞する
90歳まで自動車批評を続ける
不慮の事故により重症を負い91歳没
ポール・フレール氏(以下、PF先生)の略歴を上記した。
PF先生で印象に残っているのは「カーグラフィックTV 369回(1992年6月放送)」。
スカイラインGT-R(日産)
カプチーノ(スズキ)
ユーノス・ロードスター及びRX-7(マツダ)
NSX(ホンダ)
500SL(MERCEDES-BENZ)
348tb及び512TR(FERRARI)
911 CARRERA RS(PORSCHE)
これらを試乗した、当時75歳のPF先生は日本車に軒並み高評価を示した。そして「NSXとRX-7」を次のように論評。
ポルシェ使いとして名高いPF先生。長年の愛車はチューンした旧型の911。そんなPF先生が911のライバルとしてNSXとRX-7を挙げたのだから高評価ぶりが伺い知れる。かつてのRX-7オーナーとしては嬉しい限り。
余談だが、これは日本礼賛のために例示したのではないことを断っておく。私は日本礼賛論が大嫌いなのだ。
ついでに言えば、私が思う良車は「ポルシェ911シリーズ」「BMW3シリーズ」「スバルレガシーB4」「アウディクワトロ」「マツダユーノスコスモ」「ホンダS2000」あたり。
いすゞピアッツアやスバルアルシオーネ、ルノーアヴァンタイム、フィアットムルティプラ、ランチアイプシロン、シトロエンDS、TVRタスカンなども魅力的だが。
宍戸駿太郎氏が老害「ではない」理由
大正13年(関東大震災の翌年)生まれの宍戸駿太郎先生。あの穏やかな表情が脳裏に浮かぶ。
表情はさておき、いわゆる「デフレ」状況において公債発行による積極財政を主張し続けた日本で数少ない経済学者である。
そもそも数少ないというのが異常なのだが「流行大好き」「アメリカ大好き」「新理論大好き」「フリードマン信者(極悪シカゴボーイズ)」という勢力の前にあっては、いささか肩身が狭い。
宍戸先生は前項の「PF先生」になぞらえて言えば「ドライビングテクニック」を熟知していた。
アクセル開度やブレーキタイミングや操舵などを、過去の事例を基に「日本の国柄を踏まえた好ましい経済のドライビング」を的確に提示し続けた人。
ハーバード大学で「洗脳」されてきた若手の経済通のほうが、日本にとって余程「害」なのだ。
赤峰幸生氏が老害「ではない」理由
赤峰幸生氏と言えば着こなしの達人。では流行に敏感なのかといえば全く違う。赤峰氏はトレンドに全く関心がない。
服飾業界に長く身を置いた赤峰氏にとって、流行(トレンド)とは大量消費戦略の尖兵(先兵)に過ぎないのだ。
そんな赤峰氏の意見に対して「時代遅れ」だの「西洋かぶれ」だの「現代社会を知らない」だのと批判するのは早計である。
日本が洋装をするようになって約150年。そもそも日本人は「急速かつ強引に」洋装化へと足を踏み入れた。その強引さは、様式が確立されるまでの背景と服飾を分断した。
歴史の裏付けを忘れた服は拝金主義の従者でしかない。そして服は大量生産品へと成り果てた。拝金主義の醜さを「流行」という洗脳は覆い隠してしまう。
流行に従属している故に、ブラックスーツを常用しヘンテコなカッターシャツを「日本流」として受け入れている。ひと欠片の疑いもなく。「クールビズ」という怪しげな造語に踊らされ、服装から「礼節」が削り取られる。そんな日本の服飾事情こそ歪んでいるのだ。
赤峰氏は果敢に発信し続ける。流行服よりもクラシックを基礎にした装いのほうが多方面で優れいると。数十万円の仕立て服でも30年以上着られるならモトは充分に取れると赤峰氏は言う。
赤峰氏の素晴らしさは、狭い世界に閉じこもっておらず、積極的に若者と接するところ。若手のお弟子さんを見れば赤峰氏が老害とは程遠いとわかるはずだ。若者から逃げずに関わろうとする勇気だけでも学びになる。
老害「ではない」が批判もある
クラシックに目覚めた若者は「老害」の餌食か
赤峰氏の影響でクラシックに関心を持った若者がいる。
そんな若者を嘲笑気味に批判する人がいる。
あなたはどちらに賛成するだろうか。私は前者に賛成。つまり周りから浮いているクラシック初心者の10代を支持する。これが女性の場合なら、若い頃にしかできない服選びをすべきだとも思う。それとて「少しは」という程度。
私は「レオナール」のプリントジャージワンピースを着こなした大学生に会ったことがある。
野村沙知代の影響か、マダム、もっと乱暴に言えば「オバサン」のイメージが定着してしまった「レオナール」を、こうも品良く、そして若々しく着られるものかと感心したものだ。
もちろん「レオナール」はクラシックなブランドとは言い難い。だが、オバサンイメージの服も、着る人次第ということを目の当たりにした。故に、クラシックがオジサン臭いと思われがちなのは、サイジングと色合わせの問題であり、寧ろエイジレスな装いだという結論に至った。
老害役を演じた西部邁
西部邁先生は、あえて「老害」として立ち回ったフシがある。
孤高の言論戦士
役割としての「老害」。それは「朝まで生テレビ」での討論の頃から見受けられる。
「人権」「護憲」と喚く社会共産党系の人間のみならず「ニチベードーメー」を拠り所に防衛論を展開する腰抜けに対しても批判的な姿勢を貫いた。
近現代における「テロル」や「復讐心」の実相を通して、日本人に「気概」の重要性を喚起したように思える。それは時として「キチガイ老害の戯言」に見えたかも知れない。だが、私の目にはこう映ったのだ。
残念ながら西部先生の言論活動は「負け戦」ばかりだった。それでも僅かながら風向きは変わり始めている。ジェイソン・モーガン氏の語り口に西部先生の面影が見え隠れする。それが思い違いではないと信じたい。
思い込みだけで西部邁先生を貶めた水間政憲
西部先生が亡くなったこと受け、表面的な印象で「あれのどこが保守なんですか」とほざいた水間政憲。このゴミカスは西部先生が何度も「保守」にならざるを得なかった理由を語っていたことを知らない。
また、西部先生が「憲法が自衛隊に違反している」と繰り返し述べていたにも関わらず「自衛隊は憲法違反と言っている」という誤認を基に保守ではないと断定する水間。
田原総一朗
西部くん!君は自衛隊が憲法違反だと書いたじゃないか!
西部邁
違います。憲法が自衛隊に違反していると書いたんです。
私は殺意を覚えた。目の前に現れたら必ずブチ殺してやろうと思っている。
水間政憲こそ「老害」と呼ぶべき存在
「スクープ!」と煽った資料は他の研究者が既に発表したものを拝借しただけ
東京裁判で死刑になった七人の日本人
絞首刑の執行直前に東條英機氏たちが飲んだワインを注いだ容器は「切子のグラス」だと主張
映画「南京の真実」で、ワインを「紙コップ」に入れて飲む描写は間違いだと発言し、監督の水島総氏をバカ扱いする
だが、紙コップを用いた映画の方が正しかった
故田中正明氏の直系と勝手にふれまわっている
西部先生が亡くなった際に「あれのどこが保守なんだ」と散々こき下ろす
”Dr.Hanayama said that in the shrine the condemned men drank wine from paper cups with the their manacled hands.”
(花山教誨師は「絞首刑に服す男達は、仏間で、手錠をはめられたまま紙コップを持ち、ワインを飲んだ」と述べた。)
「shrine」は神社ではなく「崇拝の対象が存在する場所」という意味で、この場合は処刑前に松井大将らが読経し、ワインを飲んだ仏間を指します。







































