このブログを訪問してくださるあなたに伝えておきたいことがある。
この発言を見てあなたはどう思っただろうか。
思いは様々かも知れない。
「反日」と言っても、私は自虐史観に否定的だし外国人参政権や移民にも反対の立場だ。皇統あっての日本だという揺るぎない気持もある。
ではどこが「反日」なのか。言語をないがしろにする日本人や日本社会に対して批判しているところが「反日」なのだ。
語義や用法を無責任にいじくり回す日本人や日本の風潮に異を唱えているのだから、自ずと「反日」になる。
故・西部邁氏が、心の中では「反日になった」と、持ち前のユーモアを混じえながら皮肉を述べていたのを観て、私もそのスタンスを拝借しようと思ったわけだ。
私が反日を自負するのは上記のように軽薄な理由なのだが、日本人を批判している記事が多く、実を伴っているからよしとしている。
私のブログを見て「こいつは日本の敵だ」と感じる人も少なくないだろう。それは正しい見方である。
「言葉は変化する」「言葉は生き物」という観念が多数派を占める日本が嫌いなのだから。
ただ、これだけは強調しておきたい。
(略)
漢書で「世(せ)論」といってみても、それは「世にはびこる論」のことで、昔の「輿論」とは異なります。輿論というのは、「社会の台(輿)にいる庶民が心中に抱く常識」のことです。
そんな土台も庶民も常識もなくなったのが現代社会です。だから、言葉の土台も失われて、人々は目前に流れる言葉に束の間だけ唱和し、それが流れ去れば、自分の意見が何であったかさえ忘れてしまうという顛末です。
(略)
言語的動物に過ぎぬ人間が、おのれの存在の根拠である言葉を軽んじ壊し忘れていくというのは、無残としか形容の為し様がありません。