「学校」の語源から考える「安藤提言」

私は安藤裕氏を応援している。
「くにもり」から「参政党」に籍を移しても「国民の所得を増やせ」という主張はブレていない。
それは自民党時代からも変わっておらず「安藤提言」を掲げ続けた氏の孤軍奮闘ぶりに頭が下がる思いだった。
安藤氏はこう述べる。
衣食足りて礼節を知る
こんなことわざを出すまでもなく私も同意するところだ。
不景気になれば競争が激化する。言わば、一つのイスを十人で奪い合うような状態。礼節がブッ壊れるのは明白。
「余裕」が礼節を保つカギだということだ。私はそこで「学校の語源」を思い出した。西部邁先生が折りにふれ語っていたことである。
学校、即ちスクールの語源は「スコレー」。これは「ヒマ」という意味にたどり着く。
ヒマがあるから学問に勤しめる。ヒマがあるからじっくり考えることができる。そのヒマを手っ取り早く作り出す方法が「経済的な余裕」。
たっぷりヒマがある人がじっくり考えて政治へ反映させる。ヒマな人こそ「賢者」に成りえたというわけだ。
プラトンが考える好ましい政治は「ヒマ」を活かした賢者の関わりが不可欠。もっともプラトンは「質素」も条件に挙げていたのだが。
スクールの語源・本当の学問と教育・貴族階級の重要性
高度成長からバブルにかけて「衣食あふれて礼節を失った」
ただ、一抹の不安がよぎる。国民全員が経済的に満たされれば、防衛や憲法について考えるようになるのだろうかと。
日本は高度成長期やバブル期を経験している。
バブル期に若者だった私の感覚では、防衛や憲法について取り組もうとする気運はなかった。
AV(アダルトビデオ)レンタルショップが出現し「良い時代だなぁ」なんて喜ぶ私のような鈍感日本人ばかりだった、とまでは言わない。
その証拠に「強兵」はおろか、最低限の軍備である「核武装」すらしなかった。経済的に豊かな時期にも関わらず。憲法について考えようという雰囲気もなかった。
それどころか「非武装」「反基地」「護憲」運動が盛んになった。恐らく、在日外国人や反差別団体が最も権利を得ていた頃でもある。
「積木くずし」「スクールウォーズ」に象徴される「家庭内暴力」「校内暴力」が目立ったのも、現在より経済面に恵まれていた時期。
「テレクラの研究」や、いわゆる「援助交際」をする女性を称賛した宮台真司がもてはやされていた時代にも通じている。
「衣食あふれて礼節を失う」ムードは、池田勇人政権の「所得倍増計画」の頃から始まっていたのだろう。
もし、高度成長期からバブル期にかけて、国民が「経済成長を維持するためには防衛は必須」と認識していならば、安藤氏が政治家になる必要はなかった。
安藤氏が
と訴えることもなかった。
経済成長を取り戻すことは「植民地」への道!?
現況を観れば「まずは貧困化の是正」「所得格差の縮小」「一億総中流社会の復元」などが優先課題のように感じられる。
ところが前項目で述べたように、高度成長期からバブル期にかけての「衣食あふれて礼節を失う」懸念を払拭できない。
今度この風潮が再現されればバブル期以上の属国化が進むだろう。そうなれば日本は国ではなく単なる属州や属領になりかねない。
今でも属州や属領みたいなものだが、誰の目にも明らかな「植民地」になる、ということだ。
私の見立てでは、経済を含めた失政は「他国からの多角的な侵略」によるもの。
多角的に侵略をされているので、対抗策に優先順位をつける必要に迫られているのは理解できる。
安藤氏をはじめとする多くの愛国者が「経済最優先」を主張しているのは「他国からの多角的な侵略」を認識しているからだ。
しかし、経済最優先を主張する人達には「衣食あふれて礼節を失う」という恐れが欠けている気がしてならない。
そして「衣食あふれて礼節を失う」風潮が再現された先には「完全なる植民地化」というリスクがあることを軽視しているようにも感じられる。
防壁なき国は多角的な侵略に晒される
「他国からの多角的な侵略」について、もう少し考えてみよう。
私の考えはこうだ。
かつての日本は「海」に護られていた。海は防壁だったのだ。しかし「飛び道具」の出現で十分に護れなくなった。
問題なのは、日本人には元々「防壁」の概念や重要性が希薄なことにある。
藤井聡
日本は主権意識を持つことなく、日本海と太平洋という壁に主権を委ねることで精神的主権(壁)を作る必要がなかった。ヨーロッパは主権意識を持たざるを得なかった。
そして、戦後の防壁は米国の軍事力なのだと、安堵してしまった。やがて、防壁を補助する最善策は「経済成長」なのだという方針が固定化された。
ところが実際は「他国からの多角的な侵略」に晒されている。皮肉なことに米国からも。
日本人には元々「防壁」の概念や重要性が希薄というのは、私の憶測ではない。「土木の歴史」を観れば、日本は「防壁」に対する意識が低いことが理解できる。
大石久和氏の「国土学」はそれを明らかにしてくれる。
大石久和
ランド研究所によると、年に2.6回の戦争が発生し平和な年はわずか5.2%。
絶え間ない大量虐殺の経験から、装置インフラとして城壁(長城)が不可欠であると認識する。
ウル(約5500年前、シュメール時代の都市国家)から城壁が存在した。
シテ(都市)はラテン語のキヴィタス(civitas)から派生した。キヴィタス(civitas)とは「壁の内側の、人が密集している場所」という意味。
一方、日本はほとんど紛争がない時代が長かった(平安時代の約200年間・江戸時代の約250年間)。日本の平安京や平城京には「壁」がない。
現代における「防壁」とは
多角的な侵略に、優先順位をつけ個々に対抗しなければならない状況に追い込まれた日本。
そんな状況に陥れば、安藤氏の言うように「反緊縮財政運動」や「消費税廃止運動」などの経済面から対抗が有効なのかも知れない。
四方八方から侵入されれば「要所に近い場所」や「被害が増えそうな場所」に反撃の力を集中するしか手はなくなる。
それでも私はこう主張したい。とにかくまず「防壁」を作れと。
多角的な侵略の全てを防ぐのは「核武装」のみ
海が防壁の役割を失ったが故に多角的な侵略を受けていると先述した。ならば、海に代わる防壁を探さなければならない。
海に代わる最も効果的な防壁は「核武装」以外にない。ピンとこないかも知れないが「核兵器」というのは、タダの壁にあらず。
日本が戦場にならない(経済や農業分野などへの攻撃を防ぐ)
「発言」だけでも効力を発揮する
上記以外にもかなりの機能を有しているのだが、詳しくは別記事に譲る。
多角的な侵略の全てに対し戦線を遠ざけることができるのは「核武装」のみ。これだけ覚えてもらえれば十分。
もちろん分野ごとに遠ざかる戦線の度合いは違う。とはいえ、個別に対応するよりも効率的だ。
「拉致被害者全員奪還」への大きな一歩は「核武装」
私が多角的侵略の中で最優先に対処すべきと思うのは実は経済にあらず。
それは「拉致被害者奪還」である。
小泉政権時の数人のような規模ではなく「同時期に全員」でなければならない。
一時的に貧乏になろうが、まずは北朝鮮に連れ去られた日本人を取り戻すのが先。
その精神が日本にないなら、再び経済成長したところで「衣食あふれて礼節を失う」という事態が加速するだけだ。
といった無関心からくる感情論に流れていくのは目に見えている。
たまに「拉致事件」を思い出すのは異常
「拉致被害者奪還」を最優先と私は記した。
しかし、お恥ずかしいことに私は「拉致事件」について四六時中考えているわけではない。寧ろ忘れている時間のほうが多いのが正直なところ。
「拉致問題アワー」を欠かさず観ているわけでもない。
私の頭の中は大体「服飾」と「ボディメイク」で埋まっている。
こんなことを考えている時間のほうが長いのだ。
だが、私のような恥ずかしい頭の中身しかない人間が平均的とは言えないだろうか。殆どの日本人が、私のような目先の物欲や、あるいは所得にしか関心がないように思える。
「推し活」なんて流行語に浮かれたり「セルフィー」で如何にアクセスを集めるかばかり考えているのが平均的な日本人かも知れない。
「北朝鮮」か「ウクライナ」か
「拉致被害者奪還」が最優先事項だとしても実際は「米国」に頼りきり。
「日本と北朝鮮の問題」なのにである。これはひとえに日本が「核武装」をしていないからだ。
頼りにしている「米国」はそもそも拉致問題を解決するつもりがない。情勢によっては「奪還阻止」すらしてくる。
その理由を「核兵器廃絶」という面から説明しよう。
「北朝鮮」と「ウクライナ」を比べた場合、どちらが国際的に厄介なのか。言わずもがな「北朝鮮」である。いわゆる先進国も、その認識を共有している。
にも関わらず米国は「ウクライナの核兵器廃絶」に心血を注いだ。
米国の一部の「私怨」や「覇権欲」が先導したとはいえ、現実にロシアと戦争になったのだから「ウクライナの核兵器廃絶」は米国としての方針だった。
米国が本当に「人道」を大切にしているなら「北朝鮮」はもとより、ウイグル・チベット人を弾圧し虐殺している「シナ」に「核兵器廃絶戦略」を仕掛けるはず。
米国はただのチンピラでしかないのだ。何が「アメリカ グレート」なのかと。
そもそも、米国が原爆を落とせたのは「日本が原爆を持っていなかったら」という理由に尽きる。非核保有国に平気で殺戮を行えるのがチンピラ米国。
そして、多角的な侵略の先頭に立っているのが「米国」なのだ。まさに「チンピラ」そのもの。
「核武装」でようやく「北朝鮮」と同じテーブルにつける
「核武装」ですんなりと「全拉致被害者即時奪還」ができるとは言い難い。しかし、北朝鮮を交渉のテーブルにつかせることはできる。
まずは米国に頼ることをやめること。
そして、北朝鮮に「全拉致被害者即時帰国」を承諾しなければ「核兵器をブチ込むぞ」と言ってやればよい。
当然、北朝鮮も「報復で核兵器ブチ込むぞ」と言ってくる。私はそれで構わないと思う。
刺し違える覚悟のない日本なんて存在する意味はない。
刺し違える覚悟を見せれば「経済的弱者」「政治的脆弱性」のある北朝鮮は譲歩を余儀なくされる。
仮に北朝鮮に核兵器で攻撃されても、そんなものは「マヌケな日本人として当然のツケ」と甘んじて受け入れるべきなのだ。
「くにもり」の主張に活路あり
「くにもり」は核武装を前面に掲げている。
後に行われる参院選の焦点は「経済」らしい。だが、現状認識がズレているように見える「核武装」こそ、先に焦点にすべきだと私は考える。
核武装という「防壁」を作らなければ、仮に経済で侵略の手を緩めても、性別や食料などの分野から攻めてくる。「靖国神社」批判をしたり尖閣や竹島や北海道の水資源を奪っていく。
無論、被災地の復旧は放置される。
やはり活路は「くにもり」の主張にあると思う。
伊藤貫氏や矢野義明氏も「核武装を急げ」という主張を続けている。
それでも安藤氏の活動を信じたい
ここまで安藤氏の主張を否定的に語ってきた。
だが、本当は信じたい。安藤氏の見立てが正しいのだと。願いたい。私の不安が的中しないことを。
「衣食あふれて礼節を失う」か否か。実際のところ「わからない」のだから。
安藤氏も「核武装論者」
安藤氏の名誉のために言っておく。
安藤氏も「核武装論者」だ。
前妻と離婚にいたるエピソードの一つとして「核兵器の必要性」について意見が割れたことを話されていた。
経済面が豊かになれば日本は幸せになり、更に戦争をも回避できる、と安藤氏は考えていない。それが「れいわ新選組」との大きな違い。
お花畑のバカ女と離婚して正解だったと、他人事ながら思う。