今回は言語の話ではなく小山田圭吾のいじめ自慢をしていた過去ついて私なりの意見を書いてみようと思う。
遅まきながら「イジメコネクト」というワードで検索して色々見ていたところ「小山田圭吾における人間の研究」という記事に辿り着いた。
十五年近く前に書かれた記事でありながら、長期に渡り活発にコメントのやり取りがなされている。そして令和三年(2021年)になり更に注目度が上がっているようだ。
どうやら小山田圭吾がオリンピック関連の楽曲制作者に選ばれたものの、過去の障害者いじめ自慢を掘り起こされ謝罪文を出し辞任したとのこと。この記事を見に来てくださった人のほうがよくよくご存知だろう。
私は近頃殆どニュースを観ないので小山田がこんなに世間を騒がせていることを知らなかった。今やオリンピックにも興味がないので仕方ない。
因みに、佐藤竹善氏は過去に小山田の性根を痛烈に批判していたらしい。
一通り騒動を見て思ったのは「小山田圭吾のいじめ自慢は近代化の成れの果てであり当然起こるべき現象」だということ。
近代化と人権は障害者を生殺しにする
社会性のある動物は共同体から歪な存在を排除しようとする。それが共同体の安定と安寧に繋がるからだ。残酷だが、障害者はその歪な存在に該当し、大昔ならこの世から早々に退場していたことだろう。
それが社会性動物の悲しい原則だ。
ところが技術進歩により急速かつ広範囲に近代化がなされた。医療、交通、建築などが発展すると、障害者を延命したりケアしたり行動距離を伸ばすなど様々ことが可能になる。一見それは障害者にとって喜ばしいことだが実はそうでもない。
技術の進歩によりあらゆる共同体に障害者が深く関わるようになる。すると社会性動物の原則と衝突する機会が増えるのだ。小山田のいじめは小学生時代から高校生時代まであったらしいが、まだまだ子供なので動物に近い。よって社会性動物の原則通りに行動するのは容易に想像できるはず。
そして、いじめられた障害者やその家族が一生苦しむことになるのは当然の帰結である。障害者が積極的に共同体に関わるほど社会性動物の原則通りに障害者排除が増えるので、それを痛ましく感じ憤りを覚える人が出てくるのも必然というもの。
自ずと「人権」という小賢しい理屈が幅を利かせるようになるわけだ。そうなると、いわゆる「人権屋」が発言力を高める。奴らは「人権侵害だ」「差別だ」と喚き散らし、障害者を共同体にもっと深く関わらせようとする。
そんな活動が障害者にとって本当に喜ばしいことだろうか。私は、近代化と人権が障害者を生殺しにしていると思えてならない。障害児を強引に普通学級にねじ込む親もいるらしいが互いに不幸になるのは目に見えている。
「人権屋」は、障害者いじめが急速な近代化によって表出した当然の事象であることに気付きもしないのだうか。敢えて触れずにいるのかも知れないとも考えられる。
しかし、小山田はお約束通り「人権」の面から人権屋のみならず多くの国民から批判と非難を浴びた。
その「人権」という綺麗事を押し通してきたことこそ、小山田のようなふざけた奴を生み出す一因であると誰も指摘しない。つまり「人権」なる嘘くさい理想主義に染まりきってしまった者全員が「障害者生殺し予備軍」になる恐れがあるのだ。
命が芽生えれば誰もが平等であり即権利を持つなんてイカれた発想を後押ししているのは技術進歩による近代化だ。その事実を認め学びを得ることができないのが今の人間の実情。
故に障害者を生殺しにする元凶は新技術と人権への信奉だという発想も浮かばない。人間ごときに「人権」というシロモノを扱いきれるわけがないことにそろそろ気付くべきである。
タイムマシンで十八世紀のフランスに遡り「人権宣言」を燃やしたくなる。
米国にも行って「アメリカ独立宣言」をビリビリに破り捨ててやりたい。ついでにトーマス・ジェファーソンの顔面をボッコボコに殴ってやりたい。
「人権屋」が障害者の生殺しを助長したのだから、小山田に対しその「人権屋」が責任をもってなぶり殺しにして貰いたいところだ。
流石になぶり殺しは冗談だが、仮に小山田の子供がリンチされても、人権屋は勿論のこと、国民もそれを黙認する度量が欲しい。
その子供が親である小山田を恨んでバットで殴り殺すという展開になっても「ご愁傷さま」と言ってのけるおおらかさがあればなお良し。
その代わり「人権」を声高に叫んできた奴らは、小山田一家の不幸を見届けてから自害に等しい猛省をせよ。
それが今後、小山田いじめ問題のような悲劇をできるだけ減らす手立てだ。
単純な悪と失態は叩きやすい
先に述べたことと重複するが、もう少し小山田いじめ問題の根幹について触れたい。
小山田いじめ問題は国内のみならず海外でも話題になっているようだ。確かに小山田は批判されて然るべきであろう。
しかし、よく考えてみて欲しい。小山田という悪は空から降りてきたのだろうか。どこか異世界からやってきたのだろうか。
間違いなく、近代化と人権を手放しで歓迎する世界に生まれ育ったのだ。
これは何を意味するのか。
小山田は近代化と人権を素晴らしいものとして安易に受け入れた世界における単なる結果の一部に過ぎないということだ。
あなたが東電バッシングを覚えているなら、小山田を多くの国民が叩きのめす構図と酷似していると気付かなければならない。
だが、気付いている人は殆どいないだろう。
わかりやすい悪と失態を徹底的に叩きのめす。これこそ今の日本人の実情であり、察しと思いやりだのおもてなしだのと自惚れている民族の成れの果てなのだ。
小山田を徹底的に叩きのめすなら、同時に己も大いに反省し近代化と人権の再検証をすべきである。
現代の我々はエドマンド・バークが述べたこの言葉の意味をよく噛みしめるべきではなかろうか。
これから我々ができること
近代化や人権を批判したが、これは前提の話である。新技術や人権というものに手を付けた限り後戻りができないのは私も重々承知だ。私とて技術の恩恵を受けているからこうやって主張を発信できている。
ただし、近代化及び人権と付き合っていかなければならないなら、その功罪を冷静に見つめ直すべきだ。冷静に見つめ直せば、小山田のような本来的な社会動物の排除行動から障害者を隔離しプロテクトするという方法しかないとわかるだろう。
そして、勇気を持って障害者にこう言うべきである。
と。
それが近代を受け入れ人権を真面目に考える国家であり国民としての義務だ。
その代わりこうも言わなければならない。
と。
人権屋に煽られきった国民に、申し訳ないが制限させてくれと伝える度胸があるとは思えない。しかし、これが今考えられる出来る限りの配慮だと私は思う。障害者が安全に隔離されているところに我々が定期的に会いに行けば良いのではないか。
小山田の音楽を聴き続けるか否か論争
冒頭に挙げた「小山田圭吾における人間の研究」という記事のコメント欄で「小山田の音楽を聞き続けるか否か」のやり取りが目に止まった。
大凡この対立の繰り返しだ。こういった対立は音楽のみならず映像作品や小説などの分野でも見られる。
「作品と人格は切り離して考えるべき」と主張する中にピカソを例に出している人がいたり文豪の名前が飛び出したり様々な意見があって興味深く読んだが納得できるものはなかった。
その理由は次の考えが根底にあるからだ。
それは「たかが絵描き風情」「たかが音楽家風情」という考え。
絵描きは視覚を刺激し音楽家は聴覚を刺激する。つまりは動物的な部分を刺激するということ。視覚や聴覚を強く刺激され、影響を受けるというのは動物の本能に近い。
勿論、認識できる範囲や感度が異なるので猿や虎にピカソの絵は刺激にならない。だが、五感を刺激され気分が左右されるというのは実に動物的な反応である。
視覚を刺激するのが得意なだけで絵描き風情を高い位置に起き、小山田という聴覚を刺激するのが得意なだけの音楽家風情を擁護するというのは、いささか動物的で幼稚に感じられる。
こういうことを書くと「芸術を何だと思っているんだ」「音楽は素晴らしい人間の発明だ」「たかが〇〇風情とは何事だ」と批判したくなる人もいるだろう。
その批判は甘んじて受け入れるつもりだ。
私も美術は大好きで視覚刺激以上のものを得ているし描かれていない部分に物語を探そうともする。音楽も欠かせない。アニソン、ジャズ、シティポップ、ボサノヴァ、昭和歌謡、ロック、R&B、軍歌など幅広く聴いている。
エンニオ・モリコーネの「愛のテーマ」やMISIAの「逢いたくていま」を耳にするだけで涙が出てくるのは音楽の醍醐味と言える。
ただ、人間が知性を持った言語的社会動物であるならば、価値判断や行動を五感にまかせてばかりなのはよろしくないだろうと私は考える。
だから敢えて「たかが絵描き風情」「たかが音楽家風情」と言い聞かせなければならないのだ。小山田の音楽ごときを聴くかどうか揉めること自体バカバカしいと言わねばならないのだ。
それほど私は五感に流されやすい。これを読んでいるあなたはどうだろうか。
小山田騒動はオリンピックに関係しているのでついでに言えば「たかがスポーツ」に入れ込むのもどうかと思う。
これまた批判されるだろうが、元来スポーツは「ディスポルト(外れた振る舞い)」だ。球を打ったり蹴ったり全力疾走したりといった外れた振る舞いに世界中の人が熱狂するのは異常なことである。
また、スポーツ選手をやたら神聖視したり尊敬するのもよく考えるとおかしい。これは音楽や絵画の話に繋がるが、外れた振る舞いが得意な人を高い位置に置くのは間違っているとまでは言わないが、少し疑うべきではないだろうか。
スポーツが社会にとって重要な位置にあるのはひとえに「金になるから」だ。技術により急速に近代化が進んだのだから、拝金主義や功利主義や物質主義などといったものに支配されるのは当然である。
小山田とスポーツと障害者いじめは底で繋がっているのだ。
時間経過に伴い人間性と作品の繋がりは遠ざかる
小山田の音楽を聴き続けるか否か問題。私からすればこんな言葉しか出てこない。
なぜ無意味なのか。それは、作品の真価が明らかではないからだ。
聴き続けるか否か。この問いは小山田の音楽に高い価値を認めているという前提からきている。では、本当に聴き続けるに足る高い価値があるのか。時間が経たなければ見えてこないのが実情ではないだろうか。
作品は、時間経過に伴い作家の人間性/性根から離れていく。タージマハルやサグラダ・ファミリアを目にしてどう感じるか考えていただきたい。愛妻への想いや宗教的意味よりも、建築物としての魅力にまず圧倒されると思う。
クラシック音楽はCMやバラエティ番組でも頻繁に用いられる。ではワーグナー、バッハ、ドヴォルザーク、マーラーなどの音楽家の思想や素行を、現在どれだけの人が作品と重ねているだろうか。恐らく皆無である。
アントニオ・ガウディ/グスタフ・マーラー
どれくらいの時間を要するかは様々だが、早いもので二十年、遅いものなら一世紀以上待たなければならない。
近年、竹内まりやの「プラスティック・ラヴ」に代表されるいわゆる「シティ・ポップ」が再評価されているところを見ても、作品の本性は時間の経過を必要とするものなのだ。
降幡愛 「プラスティック・ラヴ」カバー
杏里 「悲しみがとまらない」
作品の真価というのは作家の性格、思想、活動などが作品と紐づけて語られなくなった時期にようやくわかり始める。それくらいの姿勢でいるべきだと私は思う。
もちろん作家の内面と作品を完全に切り離すことは不可能なのは承知している。プロパガンダとして制作された映画や音楽ならなおのこと、作品と政治思想を分けて見ることは難しい。
「人権屋」の活動の源は「金銭欲」
差別を見つけ出し重大化させる。これが人権屋の主たる活動だ。
重大化させれば権力が生まれ金が動く。金銭欲こそ人権屋の原動力なのだ。
大高未貴
人権=利権
伊藤貫
出来の悪い人間ほど女性学の問題とか少数民族の問題とか、いわゆる「アイデンティティポリティクス」(をやりたがる)。
あんなもの学問のレベルに達していない。(そういう人間は)犠牲者探しをやっている。
桜井誠
ポリコレの正体は「差別」を訴えて利権を得ること。
人は皆、障害者になる
ここで見落としがちな点を述べておきたい。それは、人は皆、必ず障害者になるということだ。
わかりやすい例を挙げよう。
寿命が伸びた現代において、いわゆる健常者全員がほぼ避けられない障害。私もすっかり老眼で日常生活で文字を読むのに苦労している。とにもかくにも老眼鏡が欠かせない。
裏面の成分表やスペックや消費期限や保存方法を読むことが難しいし、フォントの小さいブログは見づらいと感じる。
そうなると、老眼を考慮した表記は有り難いのだ。自ずと若者向けのフォントサイズの商品やサービスからは遠ざかる。だがそれは必然的な差別である。
「全ての商品やサービスを老眼向けに変えろ」と訴えるのは明らかな暴論であることは誰もが納得してくれるはずだ。
であるならば、「知的障害者を普通学級に入れろ」というのも暴論ではなかろうか。
問題は差別を徹底しないことにある
問題の本質はどこにあるのか。それは、適切な差別措置がなされていないことだ。
異質な対象に排除行動とるのは人間の防衛本能。その防衛本能は支配欲を呼び覚まし迫害や抑圧へとつながる。
小山田は防衛本能からくる支配欲に駆り立てられ障害者を迫害した。迫害自慢をしているあたり選民意識も強いのだろう。
これは米国のアングロサクソンの非道に限りなく近い。違いがあるとすれば、米国はドカドカと大陸内に入り込み先住民を皆殺しにしたり、わざわざ黒人を奴隷として連れてきたが、小山田はたまたまクラスの一員として障害者がいたというくらいのものだ。
差別が悪いのではない。排除行動のリスクを下げるべく明確に差別化しないのが悪いのだ。障害の程度や種類ごとにきっちり棲み分けをしていれば排除も迫害も格段に減るはずである。
「障害者の人権を尊重しろ」だの「排外主義やめろ」だのと喚き散らしている「人権屋」は迫害を手助けするクズなのだ。